朝日新聞は「戦後70年謝罪談話」を出せ

朝日新聞が、また北岡伸一氏に「侵略」を語らせている。彼の論旨は「謝罪より未来の話をしよう」ということなのに、朝日はまた侵略の謝罪の方向にもっていく。それなら侵略のお先棒をかついだ朝日が謝罪談話を出すべきだ。


大政翼賛会を設立した「新体制準備委員会」の幹部は朝日新聞主筆の緒方竹虎であり、そのイデオローグとして「ナチスを模範にせよ」という論陣を張ったのは、論説委員の笠信太郎だった。彼が1937年に公刊した『日本経済の再編成』は、大政翼賛会の経済計画を示してベストセラーになった。

笠は「自由主義的な経済運営は限界に来ている」と論じ、当時世界を席巻していたナチスの国家社会主義を日本も取り入れるべきだと主張した。彼は「利潤第一主義に代り得るためには、その社会的倫理的構造が個人主義を離れ、国家生活の社会性と全体性を拠り所としなければならない」と論じ、これは忠誠と服従を重視する日本の伝統的な国体とも調和するとのべた。

それは具体的には、産業別・地域別のカルテルやトラストによる再編成だった。株主資本主義をやめて「資本と経営の分離」を行ない、各産業ごとに業界団体をつくり、それを都道府県ごとに組織して国の経済政策協議会が統制し、軍需産業の強化を目的とする資金配分を国家の管理する銀行が行なう――これが「革新官僚」のバイブルとなり、1938年の国家総動員法の基本理念となった。

ところが笠の提案はあまりに過激だったために「赤」とみなされ、のちに革新官僚は企画院事件で逮捕される。緒方はそれを察知して1940年に笠をベルリン特派員として避難させ、笠はドイツでダレス米国務長官の終戦工作に協力した。そして1948年に帰国すると東京本社論説主幹となり、「全面講和」の論陣を張った。

ドイツでは、ナチスに協力した新聞社はすべて占領軍によって解散されたが、1945年8月14日の社説で本土決戦を主張した朝日新聞は、その翌週から「平和国家」の建設をとなえる論調に転向し、GHQの情報操作に協力することで解散を逃れた。

政権に入った緒方はA級戦犯容疑者として公職追放されたが、のちに自民党に復帰して副総理になった。そして国家総動員法の発案者だった笠はアメリカの工作員となって生き延び、1962年まで論説主幹をつとめた。この侵略新聞からGHQ新聞への転向が、朝日の空想的平和主義の原点である。

朝日は自分こそファシズムの指導者だった黒歴史を隠蔽するために、それを追及したGHQの立場を守っているのだ。朝日がこのような過去を謝罪することなしに安倍首相に謝罪を求めるのは、盗っ人猛々しいというしかない。