朝日新聞で「新聞と9条」という連載が続いている。戦後ずっと「平和主義の灯」を守り続けたのは朝日だったという。講和条約について、上丸洋一編集委員はこう書いている。
朝日新聞は1950年5月20日から3回連続で社説「講和に対する態度」を掲載した。筆者は論説主幹の笠信太郎だ。
「平和国家の立場を揺がすことなく、日本は講和を通して独立を回復しなければならない」(21日)
「軍事基地さえあれば果して万全であると保証しうるか。国土に軍事基地をもつことによつて公然の敵国を予想することにはならないか」(22日)
その笠は、1939年に『日本経済の再編成』の序文で「軍事行動は謂ゆる治安工作と並行して抗日勢力の徹底的粉砕を目指して進められなければならぬ」と書いた。この本は戦時体制を効率的に進めるための統制経済の設計図であり、それは1940年に「経済新体制確立要綱」として国策になり、総動員体制を実行する企画院がつくられた。
笠は慎重に「社会主義」という言葉を避けているが、これはスターリンとヒトラーに学んだ国家社会主義である。彼は朝日に入社する前は、大原社会問題研究所でプレハーノフやカウツキーを訳し、かなり本格的にマルクス経済学を研究していた。こういう社会政策の温情主義=家父長主義は、国家社会主義の一部なのだ。
そして戦後の朝日の主流も、笠を初めとする(国家)社会主義だった。朝日の社長は政治部と経済部が交代で就任したが、経済部(マル経)が主流だったという。笠は1948年に帰国すると「平和国家」をとなえ、「全面講和」を主張した。1960年には安保条約の改正に反対して「岸退陣」を主張した。
『日本経済の再編成』は1940年までに44版を重ねたが絶版となり、笠は戦後これについて何もコメントしていない。彼は朝日が「戦争に協力した」ことを反省したが、笠は不本意ながら協力したのではなく、積極的に戦時体制を設計したのだ。それを実行したのは、彼が退陣を迫った岸信介である。
岸はGHQの工作員となって処刑をまぬがれたが、朝日はGHQの宣伝工作に協力することで解体をまぬがれた。笠は自分の暗い過去を消し去るために、社を挙げて空想的平和主義に転じたのだ。
かつて朝日が戦時体制を企画・立案したのはなぜか。それを戦後はどう総括したのか。戦後の朝日の論調を決めた笠の戦争責任を追及することが、朝日の戦後責任である。それなしに「安保法案は憲法違反だ」などという形式論理を振り回しても、誰も信用しない。