PKO要員も神父たちも堕ちた --- 長谷川 良

国連平和維持活動(PKO)要員と聖職者はその職務上、精神の高貴性が求められる。両者は私欲を抑え、他者、公の利益を優先しなければならない立場だ。そのPKO要員が2008年から13年の過去6年間で派遣先で約480件の性的虐待を犯していたことが国連内部監査部の報告書で明らかになった。一方、世界に12億人以上の信者を擁するローマ・カトリック教会の聖職者が過去、数万件の未成年者への性的虐待を行っていたことが発覚し、世界を震撼させたことはまだ記憶に新しい。

高貴な課題を抱えるPKO要員や聖職者による性犯罪は何を意味するのだろうか。国連憲章を想起するまでもなく、国連は世界の平和と紛争解決という高い目標を掲げている。それゆえに、というか国連で勤務する職員は、“国連ファミリー”という言葉を好み、同僚意識と一種の使命感を共有する。

一方、聖職者はいうまでもなく、人間の在り方、生き方を諭し、信者たちを神に導く使命を有している。社会の模範とならなければならない、といった意識も高い。ローマ法王フランシスコを見ても分かるように、清貧を友とした生活を送る人々だ。

そのPKO要員が紛争地に派遣され、現地の人々を救援するという高貴な使命を実施する一方、紛争で傷ついた人々に対し性的搾取を繰り返してきたという。ある時は救援物質と交換で性的サービスを求めたという。相手の弱みを利用した性犯罪だ。

神父たちの性的虐待事件は教会の信者ではなくても大きなショックを与えた。神の愛を説き、隣人愛を訴える立場の人間がその祭壇の裏で未成年者に対し性的虐待を繰り返していたこと、それを知りながら教会側は対応しなかったことなどが次々と暴露された。「彼らはわれわれとは少なくとも違うだろう」といった淡い期待は吹き飛び、「彼らもやはりわれわれと同じだった、いやそれ以下だ」という沈鬱な気分にさせた。

PKO要員や聖職者に精神の高貴性を求めること自体が間違いだ、と指摘されるかもしれない。現実をみれば、その意見は正しい。簡単にいえば、人間は精神の高貴性を求める一方、利己的な思いを達成するために他者を利用する存在だ。「ジキルとハイド」的存在といえばそれまでかもしれない。

政治家の汚職問題や青少年の麻薬問題は政治の議題となり、社会の関心も高いが、人間が常に対峙するこの性問題については政治テーマとはならない。「人間はもともとそういう存在だ。人間も他の動物とその分野で変わらない」といった諦観がいつの間にか社会に定着してしまったからだろう。

人類の歴史が始まって以来、性犯罪は常にあったし、解決されたことがなかった。21世紀に入ってもその問題が解決される保証はない。政治家が法案を作成したとしても解決される問題ではない。しかし、この問題は決して些細な問題ではないのだ。極限すれば、人間が直面する諸問題の中でも最大の問題ではないか。多くの人々が悩み苦しむのはそのためではないか。

PKO要員も神父たちも堕ちる。戦時にも平和時にも性犯罪は起きる。性問題は時代、場所、地位、国、民族の問題ではなく、人間の普遍的な問題であることは明らかだ。戦争という極限状況だけではなく、平和な日々にも性犯罪が多発しているという現実はそのことをより一層端的に示している。

それにしても、われわれはなぜ精神の高貴性に対し切ないまでの願望を持ち続けるのだろうか。2つの矛盾する異なった性向を一つの個体の中に抱えた存在とすれば、われわれは常に破壊的な状況に置かれていることになる。科学技術が発展し、更に快適な生活環境が整ったとしても、われわれの矛盾が止揚され、癒されることがないとすれば、これほどの絶望はないだろう。

ちなみに、フリードリヒ・ニーチェは人類の発展には「自由な精神」と共に「高貴な人間性」が必要と説いている。その上で、「われわれの魂の中にある英雄を捨て去ってはならない」と訴えたというのだ。あのニーチェがだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年6月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。