志ある者は事竟に成る

真面目という字の真の次に「の」の字を一つ加えてみなさい。すると「真の面目」と読むことになり、之は一つの新たなる展開となる――森信三先生はこう述べられています。即ち真面目ということの真の意味は、自分の「真の面目」を発揮することであります。


我々が自分の真の面目を発揮しようとしたらば、何よりも先ず「全力的な生活」に入らねばなりません。「全力的な生活」をしているか否かが、真面目というものの最も本質的な要素なのです。そしてそういう生活に入るに当たっては、力の多少が問題でなく根本の決心覚悟が問題であって、その上に時間を上手く使い無駄をしないことが大切な事柄となるのです。

「親が死に瀕していても行くな、親の葬式にも行くな、お前のやることは道を究めることだけだ」とは、曹洞宗の開祖・道元禅師の言葉です。そう厳しく言われる程に、時間は惜しまねばならないものです。取り分け50歳を過ぎて後、そういう気持ちを強く持つべきだと私自身は思っています。但し、此の時間の問題も結局根本の決心覚悟如何で決するわけですから、人生に関する全てはその根本に他なしということだと思います。

「発心」「決心」「相続心」という言葉があります。何らか事を成そうと志す時、発心・決心までは誰でも行きます。しかしながら何年、何十年とそれを倦まず弛まず主体的に持続することは並大抵ではありません。そこに仏教で言われる相続心というものが、最も大事になるのです。之が無いがために志が頓挫してしまうわけです。一旦決心した事柄を最後までやり遂げるとは、斯くも難しいことなのです。

仕事をやり遂げ結果を出すに絶対欠かせぬものを一つ挙げよと言われたら、私は「憤」の一字を挙げたいと思います。何故なら、此の憤なかりせば頑張りようがありません。「何するものぞ」という負けじ魂が出てこなければ、本物には成れないのです。そういう意味で私は、人間的成長の原動力の第一は憤であると思っています。

ところが昨今の若い人達を見ていますと、胸中に憤が湧き起こる前に諦めてしまうケースが多いように感じられます。発心し決心するところまでは行くものの、憤が無いため簡単に初心を忘れてしまうというわけです。言うなれば「喉元過ぎれば熱さを忘れる…苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう。また、苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまう」が如くです。

此の繰り返しで仕事が出来るよう、なれるはずもありません。全くの言行不一致に陥らぬよう、胸に憤の一字をしっかり抱き相続心を得るのです。一度やると決した事は、苦しくとも必死で頑張り抜く姿勢が大切だということです。

之は、志がどれ程しっかりしているかと換言することも出来ましょう。此の志なかりせば、事業の成功も人間としての完成も期待できぬものであります。「有志竟成・・・ゆうしきょうせい:志ある者は事(こと)竟(つい)に成る」(『後漢書』)と光武帝も言うように、高い志こそが人間を成長発展させて行く原動力になるからです。

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