安保法制の議論は現状ではどう見ても安倍首相に不利だ。この為に内閣支持率も下がっている。私自身も含め、かなり賛成に近い立場の人たちの中でも「議論が足りない」という意見が多い。それなのに、どうして首相は今会期中の成立にあくまでも拘っているのだろうか?
それは、恐らくは「この機会を逃すと当分機会に恵まれない」と懸念しているのではないかと私は思っている。その理由の第一は、米国との対立をこれ以上先鋭化させたくない中国の習近平主席が、今後は覇権主義的な言動を抑制する方向に向かうだろうと思われる事であり、第二は、現在の「見せかけの経済の好調」のメッキが早晩剥がれないとは言えない事だ。
経済の好調が続く限りは、国民は首相に好意的になるが、もし多くの人たちが秘かに抱いている「先行き懸念」が、何かをきっかけにして顕在化すると、そうはいかなくなる。その一方で、中国の脅威を誰もが日夜感じるような状態が続けば、国民は嫌でも安全保障問題に真剣になるが、日中関係が良くなれば、もはやあまり危機感を持たなくなる。そうなると、今議論されているような安保法制は「仕切り直し」にならざるを得ない。
政治家は誰でも、自分の在任中に何か歴史に残る業績を残したいものだ。だから、安倍首相も当然「憲法改正」は視野に入れている筈だ。それなのに、何故、やれる事も不十分で、論理上も無理のある「解釈に頼る手法」に、なおも固執しているのだろうか?
勿論、この際徹底的に米国にいい顔をして日米同盟を強化し、これを梃子に中韓の圧力に対抗したいという思惑はあっただろうが、これが目的なら既にその効果は手中にしたと言っても良い。訪米時の演説で勇み足をしてしまったのは悔いられるが、率直に事情を説明すれば米国も分かってくれ、「若干の失望」で済ましてくれるだろう。首相はもう少し自信を持って、長期的な観点に立ったほうが良いと私は思う。
それにしても、聞いていて情けないのは、反対派の言動の稚拙さである。憲法学者の立場からすれば「いわば当然の違憲論」なのだが、それで鬼の首を取ったように騒いでみたり、「(自衛権の解釈を拡大したら)日本はすぐに戦争をしたがる国になる」というような昔ながらのアジり方しか出来なかったりでは、国民の多くは白けるばかりだ。
いつも言う事だが、50年前の「安保闘争」の時は、反対派の危機感はもっと切迫していた。要するにこの頃の「安保反対派」は、「ソ連や中国や北朝鮮の社会主義体制のほうが資本主義体制よりは優れており、従って日本もそのような体制に移行するべきだ」と信じていた人たちであり、東西間の武力衝突が今にも起こりそうだった当時の事を考えると、安保体制で日本が西側陣営の最前線に立たされる事など、彼等にとっては絶対にあってはならない事だったからだ。
しかし、今はどうだろうか? 社会主義体制はうまくいかない事がほぼ実証されてしまっており、自分たちの国が現在の中国のような国に、ましていわんや北朝鮮のような国になって欲しいと考えているような人は皆無ではないだろうか? そうなると、「日米同盟の強化」に反対する唯一の根拠は、「アメリカは性悪だから、世界中で悪行を働きかねず、日本はそれに巻き込まれる」とか「中国や北朝鮮は性善だから、武力を背景に日本に無理難題を吹きかけるような事はあり得ない」という議論しかなくなってしまう。
私がいつも日本人として情けなく思うのは、「巻き込まれる」とか「賠償金を払わされる」とか「押しつけられる」とかいう「受け身の言葉」が頻繁に出てくる事だ。これでは、まるで日本人には自主性というものは一切なく、自分の事を自分で決められないと言っているに等しい。「被害妄想」というか、「自虐」というか、もはや「病気」に近いと私には思える。
「集団自衛権を持ったら、米国の不正義の戦争にも巻き込まれる」という人がいるが、巻き込まれるかどうかは、日本国民が選挙で選んだ日本政府が自らの判断で決めることだ。巻き込まれるは嫌だと思ったら、巻き込まれないようにすれば良いだけの事ではないのか?
(同じように、「韓国と友好的にやろうなどと考えたら、また賠償金を毟り取られる」という人もいるが、賠償金を払う必要があるかないかは日本政府が決める事であり、外国には強制力は一切ないのだから、お断りしたければ丁寧にお断りすればよいだけの事。何を心配しているのかさっぱりわからない)
現行憲法を「押しつけ憲法」等と未だに言っているのも、恥ずかしい限りだ。勿論、最初はアメリカが押しつけたのだ。戦争に敗れた日本はアメリカ軍に占領され、自分の事でも自分で決められる立場ではなかったのだから仕方がない。アメリカは日本を「再び軍国主義に戻らぬ国」にしたかったのだが、「日本の憲法学者たちが作ってきた草案」では全然ダメと判断したので、やむなく自分たちで草案を作り、これを押しつけた。これは彼らとしては当然の事だ。
しかし、講和条約締結後は日本も普通の独立国に戻り、何でも自分で決められるようになった。だから、アメリカも当然日本は現行憲法を自分で改正するだろうと思っていた。ところが、いつまでたっても、日本は現行憲法を一字一句変えようとはしなかった。
これは勿論アメリカが要請したからではないし、ましていわんや押し付けたからでもない。憲法改正の発議には国会議員の2/3以上の賛成が必要なのに、社会党などの勢力が常にこれに反対してきたからに他ならない。
当時のアメリカのリベラル派の若手官僚が起草した現行憲法は、多くの部分でなかなか良く出来てはいるが、勿論おかしなところも多い。それなのに「ダメなものはダメ」と言って、とにかく一言一句の変更も許さないという人たちがいるのは、常軌を逸している。
例えば、この憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生命を保持しようと決意した」という文章がある。しかし、まさかこんなメルヘンチックな発想で自分たちの「安全」と「生命」が守れると思っている人は現在の日本にはいないだろう。
もしそうならば、我々の「安全」や「生命」は、国内でも暴力団や不良少年たちの「信義を信頼して」守れる筈だから、警察などは全廃すればよい事になる。現実には警察は不要だという人がいないのは、それが信頼出来ないからに違いない。
もしも仮に、この文章もあくまで変えたくないという人がいるのなら、せめて下記のように表現を変えて、もっと分かり易くして貰えないだろうかというのが、私のささやかな願いだ。「現実を無視し、美しい幻想に全てを委ねることによって、われらの安全と生命を保持しようと決意した。」でも、これでは「日本人全体が完全に病気だ」と直ぐに見做されてしまう。
私は、安保法制と憲法の問題を議論している全ての人に聞きたい。「我々の安全と生命」と「憲法」のどちらが大切ですかと。後者だと答える人がいたら、直ぐに病院に行ったほうが良い。言うまでもなく、「憲法」は我々の安全や自由を守る為の手段であり、目的ではない。
だから、安全保障の問題を議論するのに、「合憲か違憲か」という議論から入るのは間違っている。まず問われるべきは、「我々の『安全』と『生命』を、更には『自由』や『誇り』や『豊かさ』を、脅かすものが存在するかどうか」という事だ。もしそんなものは存在しないというのが国民のコンセンサスなら、議論はそれでおしまいだ。
しかし、もし存在するのなら、「それはどういう事態であり、それを防ぐにはどうすればよいか」が真剣に議論されなければならない。「その為にはやらねばならぬ事があるのだが、それをやれば違憲になる」というのなら、憲法は改正しなければならない。
最後に、安倍首相に是非お願いした事がある。現在の議論の流れはあまりに筋が悪い。首相の熱意は評価するが、段取りが悪すぎた。今からでも遅くないから、会期の大幅延長は一旦取り下げて、準備不足を認めて一歩後退し、あらためてもっと真っ当な議論を進めて頂いては如何だろうか?