前回のブログ『「憤」の一字を抱く』では、憤の気持ちが何事かをやり遂げるに不可欠なものであること、そしてまた「敬」の心より生じた「恥」の気持ちが、「自分も発奮してもっと頑張ろう」という憤の気持ちに繋がって行くことを述べました。
此の「発奮」あるいは「啓発」の語源となった言葉が『論語』にある孔子の言、「憤せずんば啓せず。悱(ひ)せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反(かえ)らざれば、則ち復(ま)たせざるなり」(述而第七の八)です。
孔子は、「学びたいという気持ちがじゅくじゅくと熟して盛り上がってくるようでなければ指導はしない」、「今にも答えが出そうなのだけれど中々出ずに口籠っているようなギリギリの所にまで来なければ教えない」、「一隅を取り上げて示したら残りの三つの隅がピンとこなければ駄目だ」と言っているのです。
『論語』を読んでいますと孔子は、実際そこまで厳しくはなかったのではとも思うのですが、彼が門弟達の自発的に学ぼうとする意欲を非常に大事にし、そういう意欲を高めてやろうとしていた気持ちがよく伝わってきます。
孔子には色々な弟子がいましたから、弟子同士を競争させていたような面もあったのかもしれません。しかし、それにしても知識を競わせるのでは決してなく、日常会話の中でリラックスして議論をしながら、夫々の行き過ぎた所は引っ込め足りない所は補って、出来るだけ中庸の徳を備えた君子になるよう持って行こうとしていたのだと思います。
また孔子は熱心に弟子達の教育をする一方で、自らが真剣に学びを追求した人でもありました。偉大な教育者というのは人に教えるだけでなく、自らも常に学び続けて行く人でなければならないということです。
『論語』の「述而第七の二十一」に、「我れ三人行えば必ず我が師を得(う)。其の善き者を択(えら)びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む」という孔子の言葉があります。
彼は、「三人が連れ立って行けば、必ず手本となる先生を見つけることが出来る。善いものを持っている人からは、之を積極的に学び、善くない人からは、それを見て我が身を振り返り改めることが出来るからだ」と言っています。
「自分も彼と同じような欠点を持ってはいないだろうか」、「自分が彼のようにならない為にはどうすれば良いのか」等と己を振り返って見、気が付くところがあれば改めて、「善からざる者も師」と割り切り、「森羅万象(しんらばんしょう)わが師」と思うようなるのです。
つまり、学ぶ気持ちがあれば何処からでも学べる、ということを孔子は教えているわけです。良くも悪くも皆わが師であり、大切なのは常に自分自身を謙虚に省み、人として自分自身を向上させることなのです。
冒頭挙げた前回のブログでは、何よりも大切なのは自分の範とすべき師を持ち、その人物は如何にしてそういう偉大さを身に付けたか等々を学び、自分もその人物に一歩でも近づこうという思いを抱くことだとも述べました。
『論語』の中には、「賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自らを省みる」(里仁第四の十七)という孔子の言もあります。自分が心より師事するに足ると選んだ人物が「善き者」からも「善からざる者」からも、「賢」からも「不賢」からも学ぶ姿勢が身に付いており、己の成長に懸命な人である否かは大事なポイントだと思います。
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