表現の自由って何?

百田尚樹さんの「沖縄の新聞つぶれろ」発言をきっかけに、自民党の議員が公然と「マスコミに圧力をかけろ」といいはじめました。

特に「経団連を使って広告を止めろ」といった大西英男衆院議員は、谷垣幹事長に注意されても「私の言論の自由だ」と開き直っていますが、これは大きなまちがいです。憲法第21条では、次のように定めています。

  1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
  2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

これは政府が表現の自由を保障する規定であって、民間人が他人を批判してもかまいません。だから百田さんが「新聞つぶれろ」といっても憲法違反にはなりませんが、大西議員は表現の自由を侵害できる政府の側の人なので、何をいってもいいというわけではありません。

もちろん民間人でも上杉隆さんみたいに嘘をつく権利は憲法で守られていないので、他人の名誉を毀損すると罰金を払わないといけませんが、政府についてはどんな批判をしてもいいというのが近代社会の原則です。これは当たり前の話ではなく、中国でも韓国でも政府を批判しただけで牢屋に入れられます。

なぜこのように政府と民間人について規定がちがうのでしょうか。それは表現の自由とは「いいたいことをいう自由」ではないからです。これは憲法で集会や結社の自由と同じ条文で規定されていることからもわかるように、政治活動の自由なのです。

実際には中核とか革マルみたいに危険な政治結社もありますが、そういう人々の結社や表現の自由も憲法で守られています。政府に危険な言論を取り締まることを認めると、「危険」の定義がどんどん広がって「政府と違う考えの人はみんな逮捕する」ことになりかねないからです。

昔の宗教戦争では、ちがう考えの人を殺すのが当たり前でした。ヨーロッパではそういう戦争が200年ぐらい続いたので、17世紀に「せめて考えのちがう人を殺すのはやめよう」という妥協をジョン・ロックが提案して宗教戦争をおさめたのが、信教の自由(言論の自由)のはじまりです。

つまり自由主義とは、人々が互いに同意しないことに同意する政治的寛容のルールなのです。これを守ることは政府の義務ですから、それを与党が否定するのは危険です。野党があまりにもだらしないので、甘くみられてるんじゃないでしょうか。