我々は見たいものだけを見、見たいものだけが見える --- 天野 信夫

あることに興味関心を覚えると、その情報が急に目や耳に届くようになります。アンテナが張られたわけです。新聞記事の中、テレビの報道の中、本屋さんの書棚の中、他人との会話の中に関連情報を見つけます。

恐らく今までも目にし耳にしたのでしょうが、それと気づかなかったのです。見ても見えない、聞いても聞こえなかったわけです。認識が変わると、目に見え耳に聞こえてくるものも変わります。

とりわけ老人には、自分なりの人生観社会観世界観が既に出来上がっています。それまでの経験や知識によって、その観は作られています。

その観にそぐわない情報が身近にあっても、それに気づきません。たとえ気づいたとしても、それを拒否するか、その情報を自分の観に合致するように変えてしまい、自分なりの解釈でそれを再構成します。

これは無意識のうちに自然と行われます。その観の構築を維持するために、その観の正当性を裏付けるような証拠を周囲に探します。見つければ観は強固になり、安心につながります。

無意識に探しますので、本人は探していることには気づきません。これは認知的不協和の理論です。

どうやら私たちは、この世界をありのままに見ているわけではけっしてなく、自分の見たい世界をあらかじめ決めて見ているようです。

自分が見たいものだけは見えますが、相手の見えるものは見えません。自分には見えているこれが、どうして相手には見えないのか不審に思い苛立ちます。相手の考えにはバイアスがかかっていると思い込みますが、相手も実はそう思い込んでいます。

とりわけ政治信念や宗教の対立は、見えている世界が異なりますのでその対立は解消できません。お互いが見えているものを、お互いに尊重するしかありません。自分の反省をも込めて、私はそう思います。

天野 信夫
無職