安保関連法案を巡る熱い戦いを見ていて岸首相がアメリカとの安保を締結した60年安保と思わず比較してしまいました。(と言っても私はまだ生まれていませんのであくまでもその後、見聞きしたベースですが。)60年安保は終戦からわずか15年後ですから戦争経験者が国民の主流であり、多くの方が高いインパクトの体験を通じて熱い運動と繋がっていったのでしょう。
国会周辺を埋め尽くすデモ隊や羽田に到着したハガティ大統領報道官を取り囲む人々から救出するために米軍のヘリが駆け付けたというとんでもないレベルの熱さがありました。
今日の安保に対する賛成論、反対論が当時と比べ今一つ迫力が欠けるのは戦後70年もたち、経験者がマイノリティであることが一つあるでしょう。またアメリカとの安保を通じて、金儲けための安全コストは無料というイメージが長く続きすぎたこともあるでしょう。街中には街宣車が「戦争法案反対」と走り回り、駅前にはマイクを片手に反対運動をする姿も見かけましたが、なぜかピンと来ないのは反対派もいきなり「戦争法案」という三段飛びのような話を切り口とするからでしょうか。
安倍首相がテレビ出演して理解を深めようと努力もされていましたが、首相の顔つきも堅かった気がします。日曜日の夜の視聴者はもっとバラエティに富んだ人々なのですからあんな応戦型の国会のやり取りのようではない方が良かった気がします。視聴率低下で悩むフジにしては頑張った企画でしたがちょっと残念な気もしました。
ところで赤坂真理氏が「東京プリズン」という長編小説で各種賞を受賞しています。この小説の骨子は主人公の女子高校生がアメリカのメイン州で天皇の戦争責任についてディベートさせられるという内容です。しかもディベートいう名の一種の裁判で主人公は天皇有罪側に立て、という先生からの指示に苦しむというストーリーなのですが、全篇共通したトーンは「自分は東京裁判なんてほとんど知らない。戦争責任なんてわからないし、日本の憲法はアメリカが作ったということをアメリカ人の学友から教わり驚愕した」という点でしょうか?
私はこの本をイライラしながら読んだのですが、途中からこれが現代の典型的日本人ではないか、と思い返しました。私を含め、戦争を知らない世代は何時の間にか世界トップレベルとなった経済大国の傘で一流っぽく振る舞い、幸福で喧嘩なんか知らない時代を何十年も享受しているのだろうと思います。
日本は安全をアメリカにお願いし、防衛のための戦闘機などの出費はとてつもなく高いモノでも購入することで安全費用の一部を負担しているようなものでしょう。でも国民はそんなことは知るすべもないし、興味もありません。
戦争を知らず、高度成長期や成熟経済期を通じてうまいもの、高品質のモノ、ITガジェットで悦びを享受している我々世代に必要なのは過去をもっと真剣に勉強することでしょう。戦後70年なら祖父母から当時の話を聞くことも可能です。上述の「東京プリズン」では主人公が「学校では習わなかった近代史」に後悔するシーンがところどころ出てきます。海外の若者は学校で勉強していても当の日本人は知らないわけです。当然、あの時何が起きたか、という話がでても反論一つ出来ないようにしたのは日本の教育そのものでした。
一般的に「失われた20年」とはバブル崩壊後の日本のことを指しますが、私達の本当の失われた日本とは昭和20年までの20年間を戦後教育から抹消して記憶喪失にさせたことではないでしょうか?
私は奇異な性格なので必死に当時のことを紐解きました。今でも継続的に関連の書は読み続けています。しかし一定の理解をするのに時間がかかったのは焦点をどこに合わせるのか分からなかったからでしょう。天皇か政府か軍部なのか、はたまた海軍と陸軍もずいぶんの差があり、誰が主導権を持っていたのか教えてもらわないとさっぱりわからないのがこの失われた20年の最大の特徴であります。
近代史の理解は今だから必要でしょう。安保関連法案の本質的意味合いを理解したうえで賛成反対を唱えている人がどれだけいるのでしょうか?それを考えるとまずはその20年を徹底的に洗い直し、国民がもう一度考え、学生は勉強し、そこから議論しなければいけないのかもしれません。
今日はこのぐらいにしておきましょう。
岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 7月25日付より