己の欲せざる所、人に施すこと勿れ

『論語』の「衛霊公第十五の二十四」に「子貢問うて曰く、一言(いちげん)にして以て終身これを行うべき者ありや。子曰く、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ」という孔子と子貢のやり取りがあります。


子貢が「一言で生涯を通して守って行くべきことを表す言葉はあるでしょうか」と尋ねると、孔子は「それは恕である」と答え「自分が欲しないことを人に施すことがないようにしなさい」と教えています。

私は、此の「恕」とは「仁」の思想の原点にあるものと考えていて、仁と関わり合い仁を定義付けるものとの認識を有しています。仁は徳の根本であり、二人以上の人が営む社会にあって最も基本となる徳目です。

孔子を始祖とする儒学では、人間力を高めるため「五常」をバランス良く磨くべしというわけですが、更に之は対人関係に関するものである「信」と、自分の人格(人徳)を磨くことに関わる「四常(仁・義・礼・智)」に分けられるとは、先月27日のブログ『不変の原則』にも書きました。

孔子は、信(…集団生活において常に変わることのない不変の原則)につき非常に重きを置いているのですが、それ以外の四つの徳目も大事なもので此のうち彼が特に重視しているのは仁だと思います。

『論語』の中に仁という言葉は、58章のべ109回出てきます。それだけを考えても此の仁が孔子にとっては「君子」と並ぶ非常に重要な、言わばキーコンセプトになっていることが分かりましょう。

仁の中には「忠…自身の内面の真心に対して誠実であること」と、「恕…自分のことのように他人を思いやる気持ち」の二つがあります。『論語』の中に「夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」(里仁第四の十五)という曾子(そうし)の言葉もありますが、私は此の忠と恕を併せてというのだと思っています。

仁という字は、人偏に「二」と書きます。人が二人ということです。人が二人向き合っていますと相手の言葉が理解できなくとも、そのうち意思疎通を図ろうという気持ちになるはずです。そして身振り手振りを使ってでも、意思伝達を試みるでしょう。その時に二人の間に起こるのが、恕という働きであります。

恕というのは他人に対する誠実さであり、如(ごと)しに心と書くように「我が心の如く」相手を思うということです。之は、慈愛の情・仁愛の心・惻隠の情と言い換えても良いでしょう。そのように相手を許す寛大な心が、恕というものです。

もっと大きく我々の社会を考えますと、それは大勢の人々によって構成されており、荀子が言うように「人間は常に孤に非ずして群」なのです。多くの人が集まって生活を営む社会では、夫々が自分のエゴを主張していては成り立ちません。集団が纏まって生活を営むためには、御互いが思いやり・親しみ・慈しみ・助け合うことが必要です。それが基本であり、その心を仁と言うのです。

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