会社の一ステークホルダーとして、社員に求められるものは何でしょうか。それは、自分の価値を上げるということです。社員一人ひとりが自らの価値向上に努めることが、企業価値を上げることに繫がって行くのです。
その為に何が求められるかと言えば、先ずは自らの人間性を磨き高め行くことです。人間力を高めそれを基礎として、様々な仕事の中で事上磨錬(じじょうまれん)して行くのです。
そうすれば取引先からも「あの人は優秀だ」と思って貰えるようになり、上司や部下からも人望を得ることが出来るようになって、そしてそれに相応しい地位が与えられるようにもなるのです。
孟子は、どのようにして人が天子になるのかについて、「天授け、人与う」という言葉を残しています。天が天命という形で授け人民が与うという形で、人は天子になる、指導者になると言っているのです。
自分で天子になりたい、指導者になりたいと思っても、必ずしもなれるものではありません。そういう真面目な努力を怠って要領よく地位を得ようにも、絶対に得られるものではないのです。
そして孟子は次の言葉、「人与うを忘れると、その民を失う。その民を失う者は、その心を失えばなり」と続けています。なぜ民を失うのかと言えば、民の心を失うからです。民の心とは換言すれば、人望ということです。
言うまでもなく、人望の源は人徳です。人徳のない人には、人はそのようなポジションを与えないのです。仮に人徳のない人が指導者の地位に就いたとしても、直ぐに組織は機能しなくなります。
とかく人望のある人というのは、部下の面倒見が良いものです。逆に部下が最も嫌うのは、責任は全て部下に押し付け手柄は全て自分が手にする、というタイプの上司です。之は逆でなくてはなりません。
リーダーには、責任は全て自分がとり手柄は全て部下にやる、という位の寛容さが必要です。これ正に「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む」(衛霊公第十五の二十一)です。人が悪い・親が悪い・上司が悪いと言っているような小人には、決してリーダーは務まらないのです。
四書五経の一つに数えられる中国の古典『大学』に「修身、斉家(せいか)、治国、平天下(へいてんか)…身修まりて後、家斉(ととの)う。家斉いて後、国治まる。国治まりて後、天下平らかなり」という言葉があります。
東洋思想の基本は、社会や人を正しい方向に導いて行こうとするならば、先ずは自分が正しく在らねばというふうに考えます。
『論語』の「子路第十三の十三」にも、「其の身を正しくすること能(あた)わざれば、人を正しくすることを如何(いかん)せん…己が正しい行いが出来ていないのに、どうして人に正しい行いをするよう求めることが出来ようか」という考えがあります。
あるいは『論語』にはまた、「其の身正しければ、令せざれども行わる。其の身正しからざれば、令すと雖(いえど)も従わず」(子路第十三の六)という言葉もあります。どれ程に知識・技術・才知に長けていたとしても、それだけで部下は動きません。
多くの弟子が孔子に従ったのも、彼が単に豊富な知識を持っていたからではありません。孔子自身が「修己治人(しゅうこちじん)…己を修めて人を治む」が出来ていたからこそ、あれだけの人望が集められたのです。
此の修己治人を実現すべく、具体的に何を身に付け実践して行けば良いのでしょうか。儒教では「五常(ごじょう)…仁・義・礼・智・信」が大事だとされ、此の五つのレベルが夫々に高いことを以て徳が高い人物だとされています。
『論語』の中には枚挙に遑がない程に、仁や信あるいは義や礼や智の大切さを述べた言葉が収められています。それは此の五常を身に付けることが、徳を高め君子になる為の絶対必要条件だからです。
集団で生きて行く上では、人と人が関係を結び成り立たせる為の徳が必要であります。それが仁・義・礼・智・信の五常であるというわけで、これ正に集団生活を営んで行く上でのリーダーに求められる一番の条件です。
天から授かった徳を蔑ろにせず、それを十分に発揮すべく常に心掛けることで、「其の身正しければ、令せざれども行わる」になるのです。世のため人のためでなかりせば、結局人望は得られません。人望というのは究極の所、徳の高低の問題なのです。
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