安楽死法 ‐ 生きない権利

もしすべての人に生存権があるならば、当然、それを放棄する権利もあるはずだ。放棄することが許されないのなら、それは「生存権」ではなく「生存義務」になってしまう。人は義務ではなく、権利として生きているのではないのか?

これは以前私が投稿した『安楽死法 ‐ 死を選ぶ権利』の冒頭部分だ。

人は義務ではなく権利として生きているのだという考えは、いまも変わらない。しかしこのとき「死を選ぶ権利」と書いたのは、やや強すぎる表現だったかもしれない。安楽死が苦痛に満ちた生(現実)から解放であるなら、「生の苦痛から逃れる権利」→「生きない権利」としたほうが私の意図に合っている。

私の意図する「生きない権利」というのは、それほど異質な考えだろうか?

たとえば投票権。投票権があるからといって、必ず投票しなければならないということではない。本人の意志で棄権することもできる。ならば生存権があるからといって、必ず生きなければならないということではないだろう。「投票の棄権」や「投票しない権利」が認められるのであれば、「生の棄権」や「生きない権利」もまた同様に認められるべきだ。

世の中には「これ以上生き続けたくない」という人たちがいる。日本では毎年約3万人が自殺し、遺書がない変死者を含めるとその数はさらに増える。残念だが、これが現実だ。また、自殺に伴う巻き添え事故や社会不安も無視できない。苦痛を伴わない安らかな死が迎えられるのであれば、わざわざ列車に飛び込んだり、硫化水素を発生させたり、ビルの屋上から飛び降りる人も減るだろう。それは本人だけでなく、社会にとっても好ましいことであると思う。

……とはいえ安楽死法が施行されると、それが犯罪に使われるかもしれないという懸念も理解できる。以前の投稿にも、こうしたコメントがいくつか寄せられた。遺産や保険金、臓器移植のために、自ら望んだかのように偽装/強要される事件が起きるかもしれない。

では、こんな条件をつけてみてはどうだろう?

・満65歳以上
・無年金
・保有資産なし(もしくは負債のみ)
・本人による意思表示の確認

上記をすべてを満たす場合のみ対象とし、執行に伴う保険金の支払いと臓器の移植は一切認めない。こうすることで、安楽死法を犯罪に利用するメリットはほぼ失われるはずだ。

もちろんこれは一案にすぎない。「65歳は低すぎる/高すぎる」というのであれば年齢について意見を出し合えばよいし、「配偶者がいないことを条件に加えたほうがよい」というのであれば、それについても検討すればよい。私がいいたいのは「どんなにつらい状況でも、苦痛に耐えて生き続けるべき」といった生の強要を改め、「生きる権利」と対になる基本的人権のひとつとして「生きない権利」を認める時期に来ているのではないか、ということだ。

まもなく日本は超高齢化社会を迎える。無年金の老人や独居老人が増える。それに伴って、孤独死や自殺も増えるに違いない。職を失い、貯金も尽き、頼れる者もなく、病に苦しむ老人が「生きない権利」の行使を望んだとき、あなたに何ができるだろう? 救うことができるのだろうか? もし何もできないのであれば、無責任な説得や根拠の無い励ましは慎むべきだ。苦痛や絶望に苦しむ者に生を強要する権利は、誰にもない。

「生きる権利」と「生きない権利」は表裏一体であり、どちらも同じように重い。尊厳を保ったまま安らかに眠ることができる仕組みの必要性について、目をそらさずに向い合ってほしい。

駒沢 丈治
雑誌記者(フリーランス)
Twitter@george_komazawa