節操がある人、節操がない人

如何にぶれなく正しい判断が出来るようして行くか--そのためには昨日のブログで言及した「恒心」も必要ですが、それと共に常に的確な判断の物差しを持っていなければなりません。決まった物差しがなければ、どうしても判断はぶれてしまいます。


私があらゆる判断をする時の規矩(きく)としているのが、「信…約束を破ったり信頼を裏切るような事をしない事」「義…正しい事柄を行う事」「仁…相手の立場になって物事を考える事」の三文字です。事に当たる時この三文字に照らし合わせて判断すれば、軸がぶれることなく的確に対処できるのです。

之は私の判断基準でありますが、リーダーは夫々に確信の持てる自身の絶対的物差しを持つ必要があるでしょう。何故ならそれを持たなければ、どうしても目先の状況変化に振り回されたり、焦ったりして失敗をしかねないからです。また人材育成に当たっても、リーダーの中に確固たる基準・方針がなければ、本当に必要な人材を確保することは出来ません。

多くの人は予想外の事態が起こった時、あるいはちょっとした変化にさえ狼狽し、右往左往してその考えにぶれが生じてしまいがちです。また何らか大きな変化が生じる中で、人間というのはその本性が現れてきたりもするものです。

よく「節操がある」とか「節操がない」と言いますが、環境が変わると主義主張を簡単に変えて行く人が此の社会には沢山います。そういう人を節操がない人というのです。如何なる局面に差し掛かろうと、常時ぶれない考え方を有する人間になることが大事です。

正しい選択をするために必要な三つの識(知識・見識・胆識)のうち、見識(…正しい知識を基にして物事の是非を判断して行く力)を身に付けるには此の節操が必要なのです。節操とは、自らを貫く信条・信念と言って良いでしょう。自分の主義主張や立場を何時も明確にし、何が起ころうとそれを守り抜く態度です。

上記の通り節操のない人は、周囲の状況や意見に簡単に流されて、首尾一貫した態度が欠落して行きますから、何時まで経っても的確な判断は出来ませんし、周囲から信頼されることもありません。如何なる環境になろうとも、己が一たび正しいと信じた道を貫き通す──之が節操のある人間です。

論語』の「陽貨第十七の十三」に、「郷原(きょうげん)は徳の賊なり…郷原のように善人面(ぜんにんづら)はしているけれども八方美人で節操のない者よりは、狂者(きょうしゃ)や狷者(けんじゃ)の方が余程いい」という孔子の言葉があります。

此の狂者・狷者ということで、孔子は「中行(ちゅうこう)を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり…言行が中庸な人と付き合い出来なければ、奔放な人や気骨ある人と交際するのが良い。奔放な人は進取の精神に富み、気骨のある人は悪事を働かないからだ」(子路第十三の二十一)と言っています。

狂者や狷者には理念や行動力が備わっている一方、善人面をしているだけの無節操な八方美人の郷原にはそれがなく、故に孔子は狂者や狷者の方を評価したのだと思います。私も孔子が言うように、最初から最高至上の徳である「中庸」を目指すは難しいのですから、先ずは狂狷から始めれば良いのだと思います。

己を知り己の人生観を確立せねば節操は身に付きません。その意味で節操というのは、志や天命あるいは信仰といったものとも繫がっていると考えられます。それは自らの内に確固としてあるものです。

皆さんの周りで「この人は節操のある人だ」と、思う人をよく見てみてください。必ずやそういう人は、しっかりした信仰を持っているとか、一本筋の通った信念を持っているはずであります。

正に天命というものを知りその命を立て自らを確立できたらば、少々の困難に動じることなく事の是非が的確に判断できる人物になれましょう。そうした人物こそが真にリーダーたるべき人なのでしょう。私自身節操ある人、恒心ある人を目指し、社会生活の中で日々知行合一的に事上磨錬し続けて己を鍛え上げるべく励んでいるのです。

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