毛沢東が日本の侵略を謝罪した陸軍中将遠藤三郎に対し「謝ることはありません。あなた方が侵略したために我々は政権をとれたのですから」と言ったのは有名な話だ。毛沢東がこの発言をした相手は遠藤三郎だけではない。他にも幾人か聞いている。これは全くの真実だが、遺憾ながら真実を言えるのは、ああしたお国柄ではカリスマであり現代の皇帝である毛沢東唯一人である。他の中国人がこんなことを言ったら同胞から袋叩きにされるに決まっている。
ところで毛沢東が言うところの日本の侵略とは何を指しているだろうか。盧溝橋事件に始まる支那事変又はもう少し広く満州事変以後日本敗戦までの15年を指していると見るべきだろう。中国の歴史教科書では日清戦争から日本の中国侵略が始まったと教えているが、毛沢東が言っているのはそうではあるまい。
実は毛沢東が言ったのとは遥かに深い意味で、日本は中国共産党(以下単に共産党)の制覇に貢献したと言えるのではないか。
共産党の創立メンバーである陳独秀、李大釗は日本留学組であり日本でマルクス主義に触れ、ナショナリズムに目覚めた。中国共産党の創立は1921年。この背景にはロシア革命と並んで五四運動に象徴される中国ナショナリズムの覚醒がある。五四運動とは、1919年ベルサイユ講和会議で日本の山東省利権が認められたことに憤激した北京大学を中心とする学生達の抗議運動である。五四運動は更に日本の対華21箇条要求にさかのぼることもできる。つまり日本の侵略が中国のナショナリズムを激成し、それが共産党の結成につながったと見ることもできる。
その後関東軍による満州事変と満州国の樹立、内蒙・華北分離工作の進展に伴い、抗日より共産党討伐を優先する蒋介石への不満が高まり、内戦停止、挙国抗日を呼号する共産党は支持を増やした。
こうした情勢下で日本が満州から放逐した張学良が西安事変を契機とする第二次国共合作の立役者となった。張学良にとって関東軍は親の仇である(1928年父親張作霖は関東軍参謀河本大作大佐によって爆殺された)。張学良はその日本軍と戦おうとしない蒋介石への不満をつのらせていた。従って皮肉にも関東軍が張学良を通じて国共合作に間接的に貢献したことになる。
真珠湾以後国民党軍、共産党軍(八路軍)とも、米英の対日参戦により連合国の勝利を確信し、日本降伏後再び始まるはずの内戦に備えて戦力温存に努めた。蒋介石にとって痛手であり毛沢東によってよかったのは、1944年中国の米軍航空基地撃滅を目的とする日本軍の大陸打通作戦だ(「打通」は中国語で「開く」という意味)。これでせっかく温存した戦力の相当部分が失われた。これも内戦における国民党敗北の要因の一つ。
ソ連の対日参戦自体は、蒋介石も予知していたが、誤算だったのは、共産党が国民党に先んじて満州を支配下におき、関東軍の武器弾薬を入手したこと。しかも満州は日本支配下で最も産業開発が進んでいた。ここを国民党に先んじて支配下においたことが、共産党の全国制覇に大きく道を開いた。この時投降した関東軍の一部兵士も国民党との内戦に徴用されている。
大東文化大学の鹿錫俊教授は、この時共産党軍兵士として戦った元日本軍兵士の果たした役割を研究している。当然のことながら共産党公認の近代史ではこうした事実が顧みられることはない。国民党軍を打倒するのに侵略者である元日本軍の力を借りたとは絶対に認めたくないからだ。
こうしてみると共産党の結成から覇権樹立過程における日本の意図しない貢献度(?)はとてつもなく多様で大きいことが分る。従って毛沢東が日本に感謝すべきは単なる侵略だけではない。毛沢東が在世であれば、当然日中国交回復後の日本の莫大な経済援助にも感謝を表明したに違いない。
以下は余談
最近映画「カイロ会談」に毛沢東が登場するのが歴史の捏造として話題を集めている。カイロ会談に出席したのは勿論蒋介石だが、ルーズベルトとチャーチルから露骨に軽んじられている。チャーチルは「蒋介石はピラミット見物でもしていればいい」と陰口を叩いている。
カイロ会談のついでにポツダム会談のこと。ポツダム会談に蒋介石は出席していない。日本と最も長く戦い最も甚大な損害を被った中国代表がなぜ、日本の降伏条件を決める重要会議に出席しなかったのか。それはアメリカから莫大な軍事援助をもらいながら日本とまじめに戦おうとしない蒋介石への不信が米英に強く、招かれなかったからである。そしてトルーマンから会談の決定事項を事後承認するよう求められただけだった。これはアメリカが、国共内戦で非勢に陥った蒋介石を見捨てる前兆でもあった。
青木 亮
英語・中国語翻訳者