1959年の砂川判決で、最高裁は「日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という統治行為論で、憲法判断を避けた。
最高裁が「高度に政治的な問題」については憲法判断できないというのは、「憲法の番人」としての役割を放棄したに等しい。これが前例となって、その後も自衛隊について裁判所は憲法判断を避けてきた。「三権分立」などというのは嘘で、裁判所は行政の追認機関なのだ。
アメリカの連邦最高裁は各州の法律が合衆国憲法に違反するかどうかを審査することが最大の仕事だから、違憲判決は珍しくないが、日本では戦後わずか9件しかない。しかも違憲訴訟は個別の事件についてしか起こせないので、下級審では憲法判断を避けて原告不適格などの理由で却下することが多い。
このため最高裁は、今まで自衛隊については違憲か否かの判断をしていない。こういう司法の怠慢が、内閣法制局が実質的に違憲審査を行なう変則的なしくみを常態化し、立憲主義を形骸化してきたのだ。
山口氏のいうように、「9条解釈を変更するなら改憲が筋」である。社会党でさえ村山首相が自衛隊と安保条約を認めたのだから、日本には自衛隊や安保を否定する政党は存在しない。憲法を現実に合わせるべきであって、その逆ではない。