陸軍を通して明治大正を知る―石光真清の自伝四部作

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石光真清の自伝四部作「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために(中公文庫)」は陸軍を通して明治大正の歴史を知るのに最良の文学作品である。文学といってもフィクションではない。しかも出版を目的として書かれたものではないので作為や衒いがほとんど感じられず資料的価値は高い。司馬遼太郎の「坂の上の雲」では分からない日露戦争の裏面史でもある。 

彼は明治元年熊本の生まれ。陸軍軍人。特に日露戦争直前、シベリアと満州での諜報活動で大功をあげた。ただ叔父の野田豁通(ひろみち)、弟の石光真臣(まさおみ)が同じ陸軍軍人として中将まで栄進したのに比べ彼は少佐で現役を去り、また彼のことを何かと気にかけていた陸軍大将首相田中義一が昭和天皇に叱責され辞職した後急死したこともあって軍人としては不遇であった。  

また彼はシベリア出兵中、シベリアに詳しいこと見込まれて徴用されたが、その作戦目的のあいまいさ、軍規の弛緩ぶりを強く批判したことも陸軍当局の心証を害し処世に不利にはたらいた。
この辺りは、イギリスの欺瞞的外交政策のためアラブの友人を裏切ったとの自責の念にとらわれ、戦後精神に変調をきたし自殺的な死を遂げたアラビアのロレンスとオーバーラップする。

この四部作を読むと、シベリア出兵辺りを境として、日本陸軍には、急速に官僚主義、形式主義、立身出世主義がはびこるようになったことが分る。

参考:「十億近くの巨額の国帑(注;国費)を費やし、幾年の久しき我が兵をシベリアの広野にさらし、あまつさえ、三千五百名の死傷及び病没者を犠牲にし、しかしてその得たるところは何かといえば、ほとんど何物もなく、もしあるとすれば瀆武(注;武をけがす)の汚名とロシア人の反感のみ」(信夫淳平「大正外交十五年史」)。
日本は第一次大戦でほとんど局外に立ち、貿易で巨利を博し日露戦争以来の財政危機から救われた。第一次大戦の勃発を聞いて「天佑」と言った元老井上馨の気持ちはよく分る。但し戦後のシベリア出兵と関東大震災によって戦時中の儲けをほとんど吐き出すことになる。

石光ほど西南戦争、日清戦争とその後の台湾征討、日露戦争、シベリア出兵など日本近代史の要所要所で最前線に身をおいた人は希で、しかもその中に歴史に名を残すことになる人が続々でてくるので実におもしろい。

その中からほんの一部を紹介してみる。
 
西南戦争では田原坂と並んで熊本城攻防戦が天王山であったが、石光はこの時10歳、薩摩軍の陣地に迷い込み西郷に次ぐ大幹部であった村田新八とも言葉を交わしている。村田から「ご両親が心配なさっているから早くお家にかえりなさい」と諭されている(村田という人は薩摩というより明治政府のホープで、西南戦争で死ななければ明治政府の中心となったはずの人。勝海舟も村田を大久保利通の後継者と目していた。村田が欧州留学から帰国後西郷側に投じたことを知った大久保は心底落胆したと言われている。司馬は最初「翔ぶがごとく」を書く時、村田を主人公にしようと考えたくらいである)。

この時、熊本城にこもる政府軍の首脳三名がお忍びで、熊本の名士であった真清の父真民を、作戦を相談するため訪れている。その三名とはいずれもその後明治の歴史に名を残す司令官少将谷干城(元土佐藩、若い頃は武市半平太や坂本龍馬に兄事。坂本と中岡慎太郎の死を見取ったのも彼。後中将、学習院院長、農商務大臣)、参謀樺山資紀少佐(薩摩藩、後海軍大将、海軍大臣というより今の人には白洲正子さんの祖父と言った方が通りがいいかもしれない)、同じく参謀児玉源太郎少佐(長州藩、後陸軍大将、陸軍大臣、日露戦争時の満州軍総参謀長、司馬の「坂の上の雲」では海軍の秋山真之と並んで作戦の天才として描かれている。

全編のハイライトをなす日露戦争の巻で登場するのは乃木の第三軍参謀長伊地知幸介(薩摩藩)。伊地知は、石光に現役を退くように迫り、彼の軍人としてキャリアを狂わせることになった。伊地知は司馬の「坂の上の雲」では悪しき藩閥人事の代表で無能にして児玉の引き立て役、そして旅順戦であれほどの損害を出した最大の責任者として描かれているのでご存知の方も多いと思う。  

戦前なら知らない人のいなかった日露戦争の軍神橘周太は石光の親友であったので彼が弔辞を読むことになった。ところが弔辞を書こうとしても涙があふれて書くことができない。同僚の森林太郎(後の文豪鴎外)に相談した所、「本当に親しい人の弔辞など書けるものではありません。私が代って書いて差し上げましょう」と言われ代筆してもらったところ、石光は大変な名文家だと評判が立った。当時石光は第二軍管理部長、森は同軍医部長。

石光の親族についても触れる価値がある。

父の弟つまり叔父野田豁通は陸軍中将、貴族院議員、男爵。
 
実兄は後に日本のビール王と謳われた馬越恭平に請われサッポロビール創業期の支配人を務めたが惜しくも急逝した石光真澄。馬越は彼の功績を高く評価し、明治大正昭和にわたってその遺族の面倒を見続けた。

実弟陸軍中将石光真臣は関東大震災の際の東京南部警備司令官。私はあの時の大杉栄虐殺事件、朝鮮人虐殺事件には石光中将にもなにがしかの責任があると睨んでいる。  

実妹真津は岡山の橋本家に嫁ぎ、龍伍を生す(なす)。龍伍は大蔵官僚から政界に転じ文部大臣、厚生大臣を歴任。龍伍の子が龍太郎、大二郎。つまり橋本兄弟は真津の孫であり石光真清は橋本兄弟の大伯父に当る。  

三島由紀夫の若き日の文学の親友で夭折した東文彦はその死を文学の師室生犀星にも哀惜された。彼は石光の次女菊枝の子つまり孫に当る。三島は東を通じて祖父石光が幼少時に体験した神風連の乱を知る。神風連の乱は三島の最後の作品「豊饒の海」第二部「奔馬」のモチーフ。  

石光のこの本はNHKが「石光真清の生涯」としてドラマ化した。 

優れた政治学者橋川文三は、「明治の栄光」(ちくま学芸文庫)という本の後書きで以下のように讃えている。

個人的記録としては石光真清の四部作がもっともすぐれており、各所で引用させていただいた。筆者はしばしば本巻全巻をもってしても石光の伝える『明治時代』には及ばないという感をいだかざるを得なかった。

青木亮

英語中国語翻訳者