十五年戦争の基礎知識

年頭所感によれば今上陛下も満州事変から大東亜戦争の敗北まで一連の戦争であったと認識していらっしゃる。これが「十五年戦争論」。

実は当時の日本人にとっては満州事変、支那事変、大東亜戦争(支那事変を含む)は別個の戦争と意識されていた。

それがなぜひっくるめて十五年戦争と呼ばれるようになったか。
それは東京裁判における連合国の歴史観(東京裁判史観)から。満州事変時の陸軍大臣であった南次郎から大東亜戦争時の首相兼陸相東条英機まで被告にされた。

この東京裁判史観に同調してわが国の左翼歴史学者があの「一連の戦争」を「十五年戦争」と呼ぶようになった。十五年戦争論も根拠がないわけではない。演じた役者は違うが推進者は一貫して陸軍であったこと、舞台は常に中国であったからだ。日米戦争だって支那事変の延長と見ることもできる。但しこうした見方はまだ歴史学の主流とはなっていない。

一般には1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件(中国では満州事変とはいわず918事変と呼ぶ)から、1933年(昭和8年)5月31日熱河戦争後の塘沽停戦協定までを(広義の)満州事変と呼ぶ。

満州事変中の1932年(昭和7年)1月、満州国樹立工作から欧米列強の目をそらすため関東軍が仕組んだのが上海事変(謀略の担当者は上海駐在武官田中隆吉、その手先として動いたのが清朝王族出身の川島芳子)。支那事変の一部としての上海事変と区別するために第一次上海事変と呼ぶこともある。この上海事変は幸い天皇の強い意向もあり短期間の局地戦で終わった。

塘沽停戦協定以後1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件をきっかけとする支那事変勃発まで日中間に一応の平和は保たれていた。この間平和であったことを重視すれば、満州事変と支那事変は別個の戦争であったことになるし、表面平和に見えて実は中国大陸北部を第二の満州国にしようとする陸軍の内蒙華北分離工作が中国の反日抗日機運を激成し(その中で第二次国共合作がなる)、それが支那事変につながったと見て満州事変と支那事変の連続性を重視すれば「十五年戦争論」になる。

満州事変は関東軍の謀略によって始まったが、盧溝橋事件では少なくとも日本側の謀略はなかった。中国側特に共産党の謀略であった可能性はある。但しそんなことを詮索してもあまり意味がない。マッチ一本が大火になるほど中国人の間で抗日機運が高まっていたことが問題。そして抗日機運が高まったのは正に満州事変を契機とする。

盧溝橋事件の翌8月戦火は上海に飛び火した。これが第二次上海事変。これは第一次と違って激戦となり大損害を被り復讐心に燃えた日本軍は中央の制止を聞かず首都南京に殺到した。「南京大虐殺」にはこうした背景がある。「南京大虐殺」はなかったと主張する人もいる。私はそうした人達に問いたい。「南京大虐殺」が仮になかったとすれば、軍民1千万人以上殺害した日本の中国侵略責任は免除されるのですかと。
この事件の責任を問われて死刑になった松井石根の東京裁判における証言を読むと、事件の存在を前提として「自分には軍規維持の権限はなかった」と言っている。

戦陣訓と言えば「生きて虜囚の辱めを受けず」の一節だけ引用されることが多いが、実は軍人勅諭に重ねてこれを制定したのは中国戦線における軍規の紊乱を正すのが主たる目的であったのだ。

話は一気に1941年(昭和16年)に飛ぶが、日米交渉の最大の争点となったのは、中国からの撤兵問題。戦場は日本ではなく中国であったのだから蒋介石との和平交渉がどうあれ日本軍が一方的に停戦を宣言し撤兵するという選択肢はあった。だが全体の合意を重視し行きがかり主義の日本的組織ではこうした合理的な決断は絶対にできなかった。

支那事変がなければ日米戦争はなかった。支那事変がなければ、1939年の第二欧州大戦勃発(第二次世界大戦という呼称は真珠湾以後)は日本には天佑となり、第一次世界大戦時と同じように有利な地歩を占めることができたはずだ。

1941年(昭和16年)6月独ソ戦が勃発すると、その直前締結した日ソ中立条約を破棄してソ連攻撃を主張したのが外相松岡洋右と陸軍参謀本部。こうした経緯がありながら1945年(昭和20年)6月敗色濃厚になった時、ソ連は日ソ中立条約の友誼上日本のために好意的な停戦仲介を行ってくれるであろうと期待したのはお人好しにも程がある。しかも前年の革命記念日にスターリンは日本を侵略者と呼び、この年4月には翌年4月に満期を迎える中立条約を延長しないと通告している。又独ソ戦終結前後からソ連軍は欧州戦線から極東に大移動を開始している。これは日本も知っていた。

それにつけても世界最大の陸軍国ソ連を仮想敵国としつつ、世界最大の人口を擁する中国と戦い、世界最大の海軍国アメリカと戦った先人達の気宇や壮とすべし。

青木亮

英語中国語翻訳者