正岡子規と陸羯南
子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句は有名だが、彼が実際に聞いたのは法隆寺ではなく東大寺の鐘であったようだ。彼は当時東大寺傍の旅館に泊まっておりこの柿も旅館の庭にあったもの。
子規と陸羯南の厚誼はうるわしい。陸羯南が子規を新聞「日本」の記者として雇用し生活を支え書く場を与えなければ子規が文学史上あれほどの業績を挙げることはなかった。子規は羯南の親友である外交官加藤拓川の甥に当たる。急に海外赴任を命じられた加藤が甥を羯南に託したのである。羯南は親友の付託に十分すぎるほど応えた。
司馬は「この国のかたち75『徳』」の中で羯南のことを書いている。
以下引用
論語の中でも朗々誦すべき名文とされる「以って六尺の孤を託すべく、以って百里の命に寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。君子人か君子人なり(泰伯篇)」の行(くだり)はあたかも羯南のために書かれたようである。以上引用 これ以上の賛辞はない。
参考までにさきほどの論語の口語訳を以下に載せる。
幼いみなし子の主君を託することができ、一国の宰相を任せることもでき、大事に臨んでも決して志を曲げない。こうした人物こそ君子と言える。
司馬のこの稿はそう長いものではないので是非全文熟読されることを勧める。尚ドラマでは佐野史郎が羯南を演じている。
ついで子規の妹律のこと。彼女の前半生は兄子規の看病のためにだけあったかのようだ。だが兄の死後は自ら運命を切り開く。兄の死後32歳にして共立女子職業学校(共立女子大学の前身)に入学。事務員を経て母校の和裁教師となる。
律が正岡家の家督を相続し、従兄弟に当たる加藤忠三郎を養子に迎えている。司馬の「ひとびとの足音」は、この忠三郎との交友をエッセー風に書いたもの。司馬は勿論子規と生前会う機会はなかったが、不思議な縁で正岡家の当主と親交を結ぶことになった。
秋山好古
日露戦争陸戦の英雄として当然ながら大将にまで昇進し栄光につつまれて軍歴を終えた。
秋山の独創は、それまで馬上でサーベルをもって戦う兵士としての騎兵を、馬で移動する歩兵(変な言い方だが)に変えたことだ。秋山隊は、敵騎兵に遭遇すると馬から降りて当時まだ少なかった機関銃で、突撃してくる敵騎兵を迎え撃つ。敵はひとたまりもない。戦争はスポーツと違ってルールはない。秋山はこの着想を、戦国時代の長篠の合戦から得たのではないかと私は考えている。陸軍大学校では古今東西の戦史特に日本の戦史を教材としていたのだからそう突拍子もない連想ではないと思う。
好古は退役後郷里松山の中学校校長になる。日露戦争の英雄にして陸軍大将である。もっと条件のよい就職先は軍関連企業などいくらでもあったと思うが、世俗に恬淡としていた好古らしい。こうした生き方は弟真之にも通じるものがある。
好古は無類の酒好きで戦闘中でも酒を手放さなかった(当時まだ陸軍にはそれを許すおおらかさがあったのだ)。戦地満州では本国から来るわずかの清酒は部下に譲り自分は現地の高粱酒で我慢していた。
秋山真之
日露戦争で戦争の悲惨を見て人殺しを生業とする自分の生き方をがいやになり何度も軍人を辞めて坊主になると言って周囲を手こずらせている。それでも50歳にして死の直前中将まで昇進する。
彼が大本教の信者であることは戦前ひた隠しにされた。日本海海戦勝利の立役者のある栄えある帝国軍人が不敬罪で弾圧された大本教に入信していたことは海軍にとってスキャンダラスなことであったから。当時もし週刊誌があったらふるい付きたくなるネタであったろう。真之は子規の親友であり共に文学を志していたことからも分るように軍人としては感受性が強すぎたのかもしれない。
「聯合艦隊解散の辞」に伺われる豊かな文才と軍人としての才能。この二つは一見矛盾しているようだが実はそうではない。どちらも豊かな想像力を必要とするからである。シーザー、ナポレオン、アラビアのロレンス、出師の表を書いた諸葛孔明、魏の曹操、我が日本史では直江兼続などが思い浮かぶ。
中国国民党の幹部であった戴季陶に「日本論」という本がある。辛亥革命以後の日中関係史を知る上で有益な本だ。ここでは深い敬意をもって真之を描いている。ここに描かれた真之は軍人というより預言者の風貌を呈している。秋山は深い同情をもって辛亥革命以後の中国の前途を危惧していたことが分る。
この本の中では桂太郎(日露戦争時の首相)の言い分がおもしろい。「清国がだらしなかったからロシアの南下を許した。日本はそれに脅威を感じ清国になりかわって国運を賭してロシアと戦った。それを中国から侵略呼ばわりされるのは心外だ」。 続く
青木亮
英語中国語翻訳者