伊藤博文と山県有朋
二人共一応吉田松陰門下ということになっているが師への思いは大分違う。伊藤は松陰門下と言われるのを喜ばなかったという。松陰の伊藤評価が高くないことを自身知っていたからに違いない。松陰は友人への紹介状で「周旋の才あり」と評価したのではないかと意外に思われる人もいるかもしれない。だがこの伊藤評価には前段がありそこでは「この男才劣り学幼きも」と書いてある。全体として決して高い評価とは言えない。松陰の高杉晋作や久坂玄瑞評価と比べれば一層はっきりする。この二人に吉田稔麿、入江九一を加えて松陰門下の四天王と呼ぶ。四人とも生きて維新を見ることはなかった。伊藤が初代内閣総理大臣になった時郷里の人は「吉田稔麿が生きていれば初代内閣総理大臣は伊藤ではなく稔麿だったろう」と囁きあったそうである。ここからも松陰門下に如何に人材が多かったかが分る。
伊藤にとっては松陰より高杉との関係が重要だ。だが高杉という天才の驥尾に付した幸運児と見ては伊藤に酷だろう。功山寺の挙兵は、伊藤が真っ先に力士隊を率いて馳せ参じなければ成功しなかったろう。劇作家の福田善之はその作品「暴れ奇兵隊」の中で「伊藤の七十年近い生涯中為した最もいいことは、高杉の功山寺の挙兵を助けたことだ」と書いている。
高杉を記念する東行庵(高杉は西行をもじって東行と号していた)にある石碑の銘「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然敢えて正視するものなし」は伊藤が書いたものである。
伊藤が師も評価した「周旋の才」を遺憾なく発揮したのは明治六年の政変時だ。伊藤の働きがなければ、岩倉具視、大久保利通等のいわゆる内治派は、西郷隆盛等いわゆる征韓派に敗れたことだろう(内治派と征韓派という区分けには異論があるが別稿にゆずる)。
伊藤は元々も同郷の木戸孝允に引き立てられて、人がましくなったけれど岩倉使節団の一員として外遊中、木戸とは疎遠になり大久保の腹心となった。大久保亡き後伊藤が明治政府の中心になったのは自然の成り行きであった。
伊藤の大きな政治的業績の一つが明治憲法の制定である。江藤淳はこの憲法を華麗な体系などと持ち上げているが全く同意できない。大正末期から昭和にかけて国家意思は八岐の大蛇の如く四分五裂するが、その根源はどこに頭があるのか分からない明治憲法にある。この憲法は一見すると天皇親政、よくよく見ると透かし模様のように立憲君主制が浮かび上がる二重構造になっている。丸山真男が言うところの「顕教(天皇親政)」と「密教(立憲君主制)」の関係である。
昭和に入り顕教が密教を圧殺したのが「天皇機関説否定」と「国体明徴運動」。これによって天皇の神格化が進む。
あの憲法がどこに権力の中心があるのか分からない仕組みになったのは、憲法制定に先んじて存在した内閣総理大臣を憲法に規定しなかったことも大きい。
なぜそうしたのか今でも憲法学者を悩ます難問で定説はないが、内閣総理大臣が武士社会の征夷大将軍の如き存在となることを恐れた井上毅の意思であったとする説がある。仮にそうだとしても「なぜ井上は憲法制定に臨みそれほどの影響力を発揮できたのか」尚疑問は残る。
昭和に入り軍部に政治を壟断する魔力を与えることになる統帥権について。
憲法起草者である伊藤の注釈書「憲法義解」第十一条の項を見ても「今上天皇の御代になり天皇が自ら兵馬の権(軍隊指揮権)を執るわが国本来のあり方に帰り喜ばしい」と言っているだけでそのはらむ問題性に気づいている様子はない。
もっとも明治憲法における軍隊に関する規定は、山県等が作った既成の制度を追認しただけという面もあるので統帥権の問題を伊藤だけに責を負わすのは酷かもしれない。
伊藤は「オレの目の黒いうちは少々の制度上の欠陥は運用でカバーできる」と考えたのかもしれない。確かに伊藤山県等元勲が健在であった時は、大きな国家意思の分裂は生じなかった。だがそれでは人治であって法治ではない。師の松陰が存命であればこの憲法に及第点がつけただろうか。
作家今東光に「毒舌日本史」という本がある。ここで山県の師松陰への思いが伺われる。
幕末津軽に今東光の祖父に当たる伊東広之進という高名な知識人がいた。松陰ははるばる伊東を訪ねて弘前まで来た。広之進の子伊東重(今東光の叔父)がその時松陰が泊まった部屋を「偉人堂」と名づけて記念に残すことにして、地元の代議士工藤十三雄を通じて山県に扁額を頼むことになった。
山県は工藤の頼みを聞き「すぐ書く」という。
工藤が「え?すぐ書いていただけるのですか」と怪訝そうに問うと、
山県「不服か」
工藤「とんでもありません。山県公に揮毫を頼んでも何年も待たされると聞いていたものですから意外だったのです」。
この時の山県の言葉がいい。「松陰先生を待たせるわけにはいかないじゃないか」。
山県は「偉人の部屋」と書いた後には何の肩書もつけず只「門弟有朋」としか書かなかった。当時山県は大勲位、公爵、元帥、功一級、従一位という人臣として最高の栄爵につつまれていたにも関わらず師の前で自らの功業を誇るのを憚ったのであろう。 続く
青木亮
英語中国語翻訳者