加藤友三郎と島村速雄
加藤は日本海海戦時の聯合艦隊参謀長で参謀秋山真之の上官に当たる。島村は加藤の前任者。私は「坂の上の雲」に登場する軍人中加藤と島村に強く惹かれる。但し島村はこの小説では十分描かれていない。
日本海海戦はあくまで従たる戦争であり日露戦争の主戦場は満州であった。加藤はそのことがよく分かっていたのであの大勝利に少しも浮かれることはなかった。司馬の表現を借りれば「大勝利が決まった後も加藤はまるで銀行員が一日の仕事を終えただけであるかのように平静であった」。
また親戚知人がお祝いに自宅にかけつけても「何のことですか」ととりつく島もなかったという。凡人なら自慢話の一席もぶつところだ。
加藤は後年原内閣の海軍大臣の時ワシントン軍縮会議に全権代表として出席し、軍令部の反対を押し切って主力艦軍縮条約に調印する。
加藤がその時軍縮条約に消極的な軍令部を説得した論理は以下の通り。
「国防は軍人の専有物にあらず。戦争も軍人だけできるわけではない。国家総動員してこれに当らなければ目的を達することはできない。分かり易く言えば金がなければ戦争はできないということである。日本と戦争が起こる可能性があるのは米国だけである。仮に軍備は米国に拮抗できるものがあったとしても日露戦争時のような少額の金では戦争はできない。それではその金はどこからこれを得ることできるか。日本の外債に応じられる国は米国しかない。米国と戦争するということはこの途は塞がれるのであるから結局日米戦争は不可能ということになる」。
この加藤の認識を日本の指導層が共有していればその後の日本の歩みは異なっていたことだろう。この加藤に長命が与えられず却って日本海海戦の英雄東郷平八郎に長命が与えられたことは日本近代史の不幸であった。
その上1920年代以降軍艦では一種の燃料革命があり石炭から石油への転換が急速に進む。それに伴い日本は石油の米国依存を強める。昭和16年日米戦争を戦う条件は加藤の時代より更に悪化していたのだ。
島村速雄
日本海海戦の直前、中々姿を見せないバルチック艦隊にしびれをきらした東郷が、条件付きの津軽海峡移動命令を発する。この時島村は東郷に対馬海峡説を強く主張し鎮海湾に留まるよう進言する。津軽海峡に移動していたらあれほどの大勝利はなかった。しかも謙虚な人柄の島村は戦後のこの功績を一切語っていない。
島村は日本海開戦直前まで聯合艦隊参謀長。秋山真之の葬儀で、「あの作戦はみんな秋山がやったことだ」と言って秋山神話の生成に力を貸す。だがこの発言は島村の謙虚な人柄、秋山葬儀の場という情況を考慮して多少割り引く必要があろう。
島村は土佐出身。同じ土佐出身の海軍軍人でも大東亜戦争時の永野修身とは大違いだ。永野は、昭和16年軍令部総長として海軍内部の中堅将校の突き上げをくらい自暴自棄的な日米開戦を主張する。
高橋是清
日露戦争は外債に頼るところが大きかった。ロンドンで困難を極めたこの起債に成功したのが当時日銀副総裁であった高橋是清。
ところで高橋はなぜ二二六事件の標的とされたのだろうか。その疑問に答える彼の発言がある。
一体軍部はアメリカとロシアを相手に両面作戦をするつもりか。軍人は常識に欠ける。その常識を欠いた軍人が政治に嘴をはさむのは言語道断、国家の災いと言うべきである。 続く
青木亮
英語中国語翻訳者