「坂の上の雲」では分からない明治の群像 7

小村寿太郎
一般にポーツマス講和会議の全権代表として小村の評価は高いが私には異論がある。ポーツマス講和会議の際、場外の宣伝戦ではロシアの全権ウィッテに完全に負けていた。小村が世論の重要性を理解できず報道機関のあしらいがうまくなかったことが日本に不利に働いた。
それでも講和条約を締結したことを彼の功績とする人に対して私はこう言いたい。「彼は予め訓令を受けた譲歩の限界まで譲歩した。あそこまで譲歩すれば全権が誰であっても妥結できたであろう」と。

交渉の土壇場で樺太の南半分を割譲してもらえたが、これが東京の本省が小村とは全く別のルートでロシア皇帝の意思を知ったためで小村の功績とは言えない。
最も遺憾であるのは、小村がアメリカ滞在中東京でまとまった南満州鉄道(いわゆる満鉄)の日米共同経営案をぶち壊したことである。
ポーツマス講和会議が開かれていた頃、アメリカの鉄道王ハリマンと日本政府は満鉄の共同経営に関し仮契約の合意に達した。日本は莫大な戦費を投じた上に賠償金が取れなかったから満州開発の資金などない。日米共同経営案はアメリカの資金を導入して満州を開発しようとする合理的なものであった。それを帰国した小村がブチ壊す。
彼はその理由の一つとして「満鉄はロシアが清国の同意を得てつくったものだ。清国の意向を無視して日本単独では処分できない」というものであった。一見もっともらしいが小村は、清国の意向などお構いなしに武力により恫喝しても満鉄の日本への譲渡を認めさせる腹だったのでこの言い草は欺瞞的だ。現にその後の清国との交渉は、交渉とは名ばかりで日本が一方的に要求を読み上げ清国が不承不承みとめるというものであった。

決定的であったのは小村が「ルーズベルト大統領もこの日米共同経営案に反対です」と言ったことだ。当時は国際電話もないので東京からルーズベルトの意思を確認するすべがないことにつけこんだのだから悪辣だ。日本政府は小村の言うことを信じるしかない。
小村はルーズベルトがそう発言した情況も、その理由も述べていないのでフィクションとしか考えられない。吉村昭の「ポーツマスの旗」も私の疑問に何も答えてくれない。

日本の敗戦と同時に満州にあった小村寿太郎と児玉源太郎の銅像が破壊されたのも無理はない。中国人の目から見ればこの二人は日本軍国主義による中国侵略の先駆けをなすものであったから。

鈴木貫太郎
日本海海戦には第四駆逐隊司令として従軍。水雷攻撃で大きな成果を挙げた。主役ではなかったが重要な役割を果たしている。後天皇に近侍する侍従長の時226事件に遭遇し重傷を負う。
鈴木が晩年終戦時の首相として聖断による降伏決定方式を編み出した功績は大きい。御前会議で天皇に結論を委ねたのはあれが最初で最後。天皇の鈴木への信頼が如何に篤かったかは映画「日本の一番長い日」にも描かれている。

尚8月9日最初の聖断の時、即時ポツダム宣言受諾3名(海軍大臣米内光政、外務大臣東郷茂徳、枢府議長平沼騏一郎)、反対3名(陸軍大臣阿南惟幾、参謀総長梅津美治郎、軍令部総長豊田副武)。偶々3対3に分かれたので天皇がキャスティングボートを行使したと理解している人もいるがそうではない。そもそも御前会議の議決は全会一致が原則であり多数決の議事規則などなかった。多数決で決まるものであれば鈴木が米内等の即時停戦案に1票を投じれば済む話だ。鈴木は天皇の意思が即時停戦であるのを知った上で天皇に会議の結論を委ねたのだ。
御前会議で天皇は議長ではなく(議長は首相)オブザーバーに近く通常発言することもない。だからこれは何から何まで異例であった。

聞くところによると英語通訳者の鳥飼久美子さんは「鈴木首相がポツダム宣言を黙殺する」と言ったのをignore 又はrejectと誤訳されたことが原爆投下につながった。従ってこれは世紀の誤訳であると書いておられるとか。鳥飼さんは「黙殺」発言に至る経緯と文脈を無視している。
7月26日ポツダム宣言が発出されても日本政府は直ちに反応しなかった。これに対し陸軍が「日本政府としてポツダム宣言に反駁し士気の阻喪を防ぐべきだ」と政府に圧力を加えた。
その結果28日朝日新聞は「政府は黙殺」の見出しで、「帝国政府としては米英重慶三国共同声明(ポツダム宣言)は何ら重大な価値あるものにあらずとして、これを黙殺すると共に断固聖戦完遂に邁進する決意を固めている」と報じた。この段階では政府の公式声明はまだない。

その2日後鈴木は内閣記者団の質問に答えるかたちで「私は三国共同声明はカイロ宣言の焼き直しであり何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するのみである」。多分鈴木の頭には2日前の新聞記事があり、それによく似た表現になったのだろう。鈴木は後で「あれはノーコメントくらいのつもりであった」と弁解しているが、この文脈で「ノーコメント」の意味に解するのは無理がある。

東郷外務大臣の戦後の証言
「日本政府としては暫くポツダム宣言には意思表示しないと決定していたにも関わらず翌日(28日)の新聞に日本政府は黙殺するという記事がでた。それで閣議決定、戦争指導会議の話ではしばらく意思表示しないと決めたのであって『黙殺』とは非常に違うとやかましく抗議した」。以上東郷の証言
ここから東郷も「黙殺」とは単なる「ノーコメント」とは違って拒否のニュアンスが強いと認識していたことが分る。

こうした経緯と文脈の中で「黙殺」をignore 或いはrejectと訳したのを果たして誤訳と言えるだろうか。 

青木亮

英語中国語翻訳者