きのうの言論アリーナでは、温暖化交渉の首席交渉官だった有馬純氏(東大公共政策大学院教授)と12月にパリで開かれるCOP(気候変動枠組条約締約国会議)21に向けて、地球温暖化と国際交渉の現実について話を聞いた。
日本人の多くは、いまだに国連に対する幻想をもっているが、190ヶ国以上が全員一致しないと何も決められない会議で、実質的な意思決定はできない。日本は「温室効果ガス2013年比マイナス26%」という目標を持って行くが、おそらく実質的な拘束力をもたない目標が麗々しく発表されるだろう。
こういう国際会議は、実際には各国の政治的宣伝の場である。人口数万人の島国も日本と同じ1票をもっているので、「温暖化で沈没する」という演説を延々とする。おまけにNGOが政府と同じ扱いで発言するので、会場は「環境より金を優先する資本主義」への非難の大合唱になる。
これは、ある意味では1992年にCOPが生まれたときからの運命だった。冷戦は宗教戦争のようなもので、80年代までは社会主義という宗派に集まっていた各国の反体制派が、冷戦の終了でイデオロギーの支えを失い、「エコロジー」という宗派をつくって集まり始めたのだ。
京都議定書の基準年が1990年になっているのは、それを象徴している。この年から社会主義の崩壊で東欧のCO2排出量は劇的に減り始めたので、EUの8%削減という目標は何もしなくてもクリアできるが、日本の6%削減は不可能だった。しかし国会は全会一致で京都議定書を批准し、自民党から共産党まで美しい理想に燃えていた。
その後しばらく気候変動がエコロジストの最大のテーマだったが、京都議定書が失敗に終わり、彼らも次のターゲットをさがしていた。そこに3・11が起こり、彼らは「反原発」という新しいテーマで盛り上がったのだ。そのネタは何でもいいので、日本ではマスコミが安保法制で騒ぐと、安保で盛り上がる。
慰安婦問題もそうだった。80年代まで社会主義で食っていた人々がネタを失い、90年代に「アジアへの戦争責任」という新しい商材を売り込み始めたのだ。1991年に福島みずほ氏が、慰安婦の話をNHKに売り込んできたのは偶然ではない。
要するに目的は「反資本主義」だから、そのネタは慰安婦でも温暖化でも原発でも安保でも、何でもいいのだ。かつては社会主義という「大きな物語」があったが、今はこういうインチキな話しかない。しかしマスコミもその騒ぎをあおって商売する「共生」関係になっているので、こういう騒ぎは――ネタを変えながら――今後も続くだろう。