著者が1997年に出した『敗戦後論』は、いろいろな話題を呼んだ。それは戦後ずっと続く左右のルサンチマンを指摘したからだが、本書はそれをさらに追究した635ページにも及ぶ大作だ。
前著と違うのは、戦後の憲法論争をたどる中で、南原繁などの全面講和論者が主張していたのは「非武装中立」ではなく、国連中心主義だったという事実を発掘したことだ。これは私もブログマガジンでくわしく論じたが、今では忘れられている。
ルサンチマンを批判するのはいいのだが、著者も最後は、憲法を改正して国連軍を置き、米軍基地を撤去しろという国連中心主義に回帰してしまう。これでは南原や坂本義和と変わらないが、国連が機能しないことは歴史的事実だ。
その理由も明らかである。国連総会が議会として機能しないからだ。ケルゼンもいうように、議会制度の本質は全員一致しなくても多数決で決めることだが、国連ではアメリカも太平洋の島国も1票だから、アメリカは自分の思い通りになる問題しか国連に出さない。イラク戦争のように、戦争も国連決議なしでやる。
これは高額納税者も生活保護受給者も同じ1票をもつ普通選挙を国際的に拡大したようなものだから、高額納税者(アメリカ)が拒否するのは当然だ。おまけに安保理の常任理事国が拒否権をもっているので、国連軍は(正式には)1度も結成されたことがない。
だから集団的自衛権という変則的なものができたのだ。それは国連軍による集団安全保障が実現するまで軍事同盟による地域的安全保障を認めるもので、確かに理想とはいえないが、ないよりましだ。日本が「武装中立」しようと思ったら、莫大なコストがかかる。
本書にはこのへんの議論が抜けていて、最後は「危険な安倍政権」に歯止めをかけるといった思い込みになってしまう。日米同盟は安倍首相にとっても(祖父と同じく)最善の選択ではないが、現実にはそれしかない。著者は米軍基地はいらないというが、それを撤去するには核武装が必要だ。ところが憲法に「非核三原則」を書き込むというのだから、支離滅裂である。
こんな奇妙な憲法改正案が政治的に可能なのか、という問題も著者は考えていない(考えたら書けないだろう)。ビスマルクがいったように政治は「可能性の技術」なのだから、リアリズムにもとづいて実現可能な改正案を考える必要がある。