「特別の教科 道徳」に思う

昨日リツイートしておきましたが、iRONNAという「総合オピニオンサイト」内の特集「真実を教えない日本の教科書」に、小生のブログ記事『日教組を破壊せよ』(15年4月21日)が今週転載されました。


此の特集は本年「4年に一度実施される中学校教科書の採択の年」であるが為ですが、加えて注視すべき関連はもう一つ、先月末付で「教科書検定基準改正」が為された「道徳教科化」に伴う一連の動きです。

戦後70年を経て日本は、色々な面で危機的様相に陥ってしまいました。大変嘆かわしくは近年、親殺し・子殺し・児童虐待・老人虐待・自殺の増加等々、新タイプの社会問題も顕在化してきています。現在の日本社会が抱えている様々な問題の根本原因は何処に求められるか――当ブログでも一貫して指摘し続けてきた通り、その所在は戦後日本の教育にあると私は考えます。

戦後の教育には、道徳的見識を育てる人間学という学問が欠落していました。つまり、「人間如何に生くべきか」「人間どう在るべきか」ということを教えない教育であったのです。歴史を遡れば、平安時代の終わりに出来たと言われている『実語教(じつごきょう)』が教科書として鎌倉時代に広まり、更に江戸時代の寺小屋でも使われていたと言います。此の『実語教』とは正に、人間如何に生くべきかを千年近く日本で伝えてきた道徳教本です。

更に昭和に入っては戦前、「修身」という授業の中で、きちんと人間的素養を身に付けさせてきたのです。こういった人間的素養は戦後、GHQによる教育制度改革で修身の授業が停止されるまで、日本人の強い精神力の源泉ともなっていたものです。マッカーサー司令官は我国占領の後、日本の強みとは何であったかを徹底分析したのでしょう。その結果日本人の精神力の強さを知り、それを怖がり潰そうと思ったのではないでしょうか。

しかし此の戦後教育によって、「親に孝を尽くす」「友に真を尽くす」といった日本人がごく当たり前に持っていた道徳観が取り去られてしまいました。こうした道徳観が「忠君」に繋がると考えたのでありましょう。つまりは、日本人が教養の根幹として持ち続けた伝統的・倫理的価値観まで破壊しようと試みたのだと思います。

今回初めて「道徳が教科になるにあたって、検定教科書が作成されることになり(中略)、国の検定と、教育委員会による採択が行われ」るわけですが、今後は小学校が平成28年度に、中学校が29年度に当該検定が実施され、夫々「2年後に検定教科書での授業が始まる見通し」となっています。

所謂「教科」とされるには、「検定教科書の使用、点数評価、専門の教員免許の3つの条件が必要」です。「特別の教科 道徳」では、先述した「検定教科書は作られますが、道徳専門の教員免許は設けず、指導はこれまでと同様に原則、学級担任」が行い、また「学習の理解度や達成度を数字で示すのはそぐわないので、児童生徒の評価は文章で表すこと」になっています。

後者を巡り文部科学省は本年6月より、「道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議」で「指導要録の具体的な改善策等も含めた専門的な検討」を重ねているようですが、究極的に道徳には評価など不要です。道徳とは、徳性の高い人がきちっと教え行くものですから、何ゆえ道徳性が如何なるものかと教師が評価せねばと感じられ、不毛な議論を続けているとしか思えません。

寧ろ心配なのは道徳というものにつき、教師がちゃんと教えることが出来るか否かという部分です。道徳とは、生き方の問題で暗記モノではないのです。たとえ教師と呼ばれる人であっても、道徳性の低い人が道徳を教え評価するなど余りにも馬鹿げています。

私が何時も思い出すのは、安岡正篤先生と並ぶ明治生まれの教育・思想の巨人、森信三先生です。『修身教授録』は、森先生が40代前半に天王寺師範学校の「修身科」で講義された内容を生徒が筆記したものです。私が本書に出合ったのも同じ40歳位で、当時私は野村證券のニューヨーク拠点やロンドンに設立したM&Aの会社の役員を経て、日本に戻った頃でした。此の『修身教授録』を読み、魂が打ち震えるような感動を覚え、同時に自分の未熟さを思い知らされた次第です。

「教育とは、子どもの20年、30年後も見つめ、学校下の民をも導くものでなければならない」という透徹した使命感と人間に対する深い愛情、東洋の思想哲学に基づく豊かな学識といった森先生の全人格が臨場感を持って魂に迫ってきたのです。

人知れず便所を清めたり教室のゴミを片付けたりと、「下座行」を実践された方の言葉には学問だけを究めた人には及ばぬ真義がそこにあって、後に全集をはじめ著書という著書を探し求めて読破して行くことになりました。

中国古典および安岡先生と並んで森先生も、私の精神的支柱を作る上で大変重要であったと言っても過言ではありません。此の森先生レベルとまでは行かずとも教師に人を得ぬ状況にあって、そもそも道徳教育の評価など有り得ない話です。

人を教えるという立場とりわけ子供を教えるという立場に立つは、非常に難しくまた非常に重要なことだと思っています。それ故この職業に就く人は、人格が際立って高潔でなければ勤まらないのだと思います。

教師同様に子供を悪くしたのでは御話になりませんから、そうした努力を徹底し研鑽をし続けて行けるような人に就いて貰わねばなりません。また更には、生徒に教えながら自ら学んで行くという「半学半教」の如き姿勢の人でなければ、実は此の教師業は本当の意味で勤まらないのだと思います。

道徳教育の評価議論云々のはじめ、戦後教育にどっぷり漬かった不十分な教師達は、人間学の学習と知行合一的な修養によって、人間力を練らなければなりません。そして、精神・道徳・人間の内的革命を遂行して行かねばならないのです。

今後は日本の未来を担う子供達を育てる教員の資質も高めて行くべきでしょう。私が私淑する上記した森先生のように、情熱を持って教えと学びを共に実践して行く人物が教師になるような教育制度創設こそが、これからの時代に求められているのです。

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