ノーベル賞週間も一段落して、今日の大きいニュースと言えば、ユネスコの記憶遺産の件。日本から(京都府から)は『東寺百合文書』、『舞鶴の引揚資料』の新規登録が決まった。
『東寺百合文書』は、ユネスコに登録されようがされまいが、京都府も国も、従来のとおり、保存と活用には熱心であり続けることだろう。特に爆発的に喜ぶことはない。
しかし『舞鶴の引揚資料』は、この登録が、今後の保存と公開のために有利に働くだろうと思う。わたしにしても親の代、またその親の代に引揚者は多く、実際にソ連から舞鶴に引き上げた者も二人おり、感慨深いものがある。(私事ながら、来年の春には、親族と舞鶴に行く予定をしている)
その一方で新聞の一面は、『南京大虐殺資料』の同時登録も伝えている。日本全体にとっては、この問題の方がはるかに大きい。
ところでわたしにとって中国というと、古い話で恐縮だが、まず思い出すのは北京放送である。もうタモリ氏もそのパスティーシュはしなくなったが、1970年前後、夜にラジオのチューニングダイアルを回すと、
「ニッポンの同志のみなさん、友人のみなさん、こちらは北京放送局です」
が飛びこんできたものだ。国内のニュースとは全然タネがちがうので、新鮮に感じて聞き入ったものだ。わたしの頭には、そのころや、そのあとの日中交渉の単語とフレーズが、まだいくらか残っている。
・・・ アルバニア形決議案
・・・ 添了麻煩 = ご迷惑
・・・ 光華寮裁判
・・・ 兵馬俑損壊
・・・ 今の世代は智恵が足りない
・・・ 水を飲むときは
・・・ 戦略的互恵関係
1980年ごろ、準招待の視察団で中国に行った人が、帰りの飛行機で日本語版『人民中国』誌の定期購読を申し込んだ。わたしのところにも、その読了分が遅れてやってきた。
共産党肝入りの広報誌とはいえ、手に取るとけっこうおもしろかった。それよりも、中国で年々物事が進んでいる様子に興味が湧いたものだ。そのかなりが膨らんだ記事だったにしても。
1989年の一件のあと、『人民中国』もその波をかぶらないわけにはゆかなかった。しかし数ヶ月後に手にした号の内容は、予想をはるかに越える沈降だった。どこをひらいてもお通夜のような暗さである。面白さも新しさもなくなった。だからそれからはもう読んでいないし、発行がまだ続いているかどうかも知らない。
おそらくはその時に職を解かれた編集者たちは、その後どうなったのだろうか。心配してもはじまらないが。
こんな小さな広報誌の顛末とは違って、中国本体もアジア全体も、このあともっと大きく変化し、変化しつづけた。
かつての日本のように内陸鉄道建設と移民を積極的に進めたり、かつてのドイツのようにクリスタルナハトをしたり、かつてのアメリカのように武力的空白の海洋に基地を作ったり、かつての先進工業国のように、水も空気も食品も汚染まみれになったり。そんな国もあらわれたのである。上品に書いたが、実態はこんなものではなかったろう。
日本の歴史を、また歴史一般を直視して有益なのは、日本ではなくて、別の国ではあるまいか。かつて北京放送局が指弾していた帝国主義は今どこにいるのだろうか。
けれども、かつての中国が、敵国と、敵国の人民とを分けて考えたように、われわれも独裁党と独裁下の人民とを分けて考えておくべきだ。
われわれは、近隣の今の歴史を、将来の近隣人民のために残すことはできるだろう。
日本における『東寺百合文書』と同様、中華人民共和国も今回のユネスコの登録とは関係なく『南京大虐殺資料』は保存も、公開も、活用も続けるだろう。それはそれで任せておいてもよい。しかし現代史、同時代史の領域で日本が遅れをとることは、絶対にあってはならない。
日本でこそ正しいアジアの姿が報道されている、とアジア人民に諒解してもらえるようになれば、それはアジア人民にとってなんとも素晴らしいことだ。ぜひとも感謝されるようにならなければならない。
独裁下の人民にとって、取材も発表も困難である。だが日本人にとっては、すくなくとも発表はそうではない。歴史を綴るということは、だれにとっても容易なことではないが、近隣の状況を分析し、記録に残すということは日本の国益に直結する事柄でもある。
そしてこういう姿勢は、たとえば日中友好の、次の70年の礎にもかならずなるのである。
「中国の同志のみなさん、友人のみなさん」
2015/10/10
若井 朝彦(書籍編集)