「室町時代の酒税」考

若井 朝彦

京都は発掘調査のさかんなところだが、ヒミコの頃とか、倭の五王関連のものなどはまず関係がない。平安京の遺跡は当然あるわけだが、室町、安土桃山、徳川あたりにも渋いものが出て、興味ひかれることがある。2008年の夏、15世紀の酒屋のきれいな跡が見つかったというニュースが流れた。

場所は四条烏丸の裏だという。このケースもそうだったように、まとまりがあって明瞭な出土の場合、現地説明会がよく開かれる。だが時間に都合がつかなかったので、その数日後、仮囲い越しに現場を見てみた。よく分からないままに写真を撮ったのだが、説明会(遺跡発掘の場合でも略して「現説」なんていう)ではていねいな表示や解説があったそうだ。(現在はWEBでその詳細な報告書も読める)

地下に甕が30ほど整然と並んでいて、麹室らしい遺構もあったという。これが酒屋であった決め手なのだが、この酒甕がすべて内側から底にかけて突き割られている。この酒屋は襲われたのである。

下京の大きな店は金貸しもしていたから、土一揆に襲われたと考えられなくもない。だが一揆勢には、暗い地下の甕を丹念に割ってまわる動機はないはずだ。そうなると誰が襲ったかはほぼ推定が可能。北野社の麹座である。麹の密造の摘発だったのだ。実際は幕府が手を下したのかもしれないが、そうだとしたら、購入麹と蔵出しの酒量の不整合等を根拠に、麹座が告発したということだろう。

現在、北野天満宮の宝物殿では、長谷川等伯の大絵馬などを見ることができるのだが、そのほか、北野社に麹座を認許する足利将軍義満の書状、また酒屋が差入れた誓紙もよく展示されている。

当時の京都では、北野の麹座以外に麹を造ることも売ることもできなかった。だからすべての酒屋は麹座から麹を買っていた。買っていたというよりも買わされていたのである。そういうことになっている。麹座から北野社へ、北野社から将軍家へと、当時の「酒税」はそんな風に流れていったのである。

しかし酒を醸すことができる酒屋にしてみれば、もちろん麹だって扱えるし作れるのである。自前の麹で安く上げよう。しかしそれは経済的理由だけだったろうか。

麹は酒造りのだいじなだいじな入口である。「官許専売統一麹」ではなくて、なんとしても自分たちが手元で育てた麹が使いたかったのではあるまいか。四条烏丸から北野天神まで、歩いても一時間ほど。そんな近くで、密かに麹を育てていた当時の「杜氏」たちの命懸けの意地。

実際こののち、北野の麹座の力が衰えると、新しい酒が各地で生みだされるのである。

しかし酒、酒造、酒税には面白い性格があって、相互に奇妙な働きかけをするものだ。酒税が強すぎると無論のこといい酒はできない。規制の緩いジャンルに大勢がかたむいて、別種のものが生まれてくることもある。だが安定した条件にあるからといって品質が向上するとはかぎらない。

かつてウイスキーなど、輸入蒸留酒類の関税が大幅に引き下げられた時、日本の焼酎は太刀打ちできず、滅びるだろうとさえ言われた。廃業した蔵もすくなくなかったろうが、その後、焼酎そのものの品質は向上し、名声を勝ち得た。現在は清酒とともに政府の「国酒」扱いである。

その一方で、安く手に入るようになったナポレオンの風味は、総じて淡泊になったようである。

以上、中世史の専門家からしたら、あまりにも粗雑で大雑把で、怒りの鉄槌を下されかねない閑話(むだばなし)になった。現代日本とも、関係のあるようなないような、中途半端な内容だが、お酒と税金の複雑怪奇は、きっとまだまだ続く。

 2015/10/25
 若井 朝彦(書籍編集)

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