少し前の話題だが、安保法制の審議で佐藤正久議員が指摘した「岡田克也氏はかつて集団的自衛権を認めていたのではないか」という件は、NHK「日曜討論」で櫻井よしこ氏も指摘したが、民主党側は「認めたことはない」と対抗した。だがこの件は、実は「認めると言ったか、言っていないか」という範囲を超えた問題を浮き彫りにしているので、改めて考えてみたい。
佐藤氏、櫻井氏が引いた〇三年五月三日の読売新聞にはこうある。
「集団的自衛権は非常に幅広い概念だ。第三国が米国と戦争になった時、日本が出かけて行って武力行使をするのは憲法を逸脱している。米国本土が攻撃された場合も憲法上は問題だ。ただ、日本を防衛するために活動している米軍が攻撃された場合、日本に対する行為と見なし、日本が反撃する余地を残すのは十分合理性がある。今の憲法は、すべての集団的自衛権の行使を認めていないとは言い切っておらず、集団的自衛権の中身を具体的に考えることで十分整合性を持って説明できる。ただ、日本を守るため公海上に展開している米軍艦艇が攻撃された場合という限られたケースなので、むしろ個別的自衛権の範囲を拡張したと考えた方がいい。集団的自衛権という言葉を使わない方がいい。」
つまり、集団的自衛権に相当する行為をする必要性が出てくる場面はあるが、それを「日本を守る米軍だから」という論理を使って集団的自衛権と呼ぶことを避けよう、ということになろうか。
在日米軍基地への攻撃は「わが国」への武力攻撃であるため、日本は個別的自衛権で対処するとされているが、公海上での米軍への攻撃は「わが国」への攻撃ではない。「日本を守るために公海上にいる」からといって、自分が攻撃されていないのに米軍への攻撃に対して応戦した場合は、「集団的自衛権を行使した」としか言いようがない。
何よりも、「あるケースが個別的自衛権に相当するのか、集団的自衛権に相当するのか」を決めるのは岡田氏でもなければ、日本国(政府)でもない。国際法上の定義による。
国連は自衛権について、何らかの武力衝突が起きた場合、本来は安保理決議により加盟国「みんなで」対処(集団安全保障の発動)すべきところだが、現実にはそれが叶わない(間に合わない)ので、国連憲章によって個別的または集団的自衛権で応じることを許し、その旨を国連に報告することを加盟国に義務付けている(国連憲章五十一条)。
では岡田氏の言うように、自国が被害を受けておらず、客観的に見てどう考えても集団的自衛権であるものを、あえて「個別的自衛権(の拡張)です」と言い張って国連に報告したらどうなるのか。下手をすると「個別的自衛権の権限を超えて反撃した」ことになり、立派な国際法違反となる、という指摘もある。(「集団的自衛権の行使に憲法改正の必要なし」村瀬信也・上智大学名誉教授、安保法制懇メンバー)
また、日本はアメリカとしか同盟を組んでいないが、アメリカは台湾、韓国、オーストラリア、フィリピンなどとも同盟関係にある。公海上でアメリカが受けた攻撃に対して豪比韓台がそれぞれ「集団的自衛権」で応戦し、国連にそう報告する中、日本だけが「いや、うちは個別的自衛権です」と言えばどうなるか。国連憲章が掲げる理念を日本は亡きものにしかねない。
国際法に違反する危険を冒してまで「個別的自衛権で応戦しました」とあえて言い張る必要性はどこにもない。むしろマイナスだ。
さらには「公海上で日本を守る米軍は日本の一部とみなすので、個別的自衛権で応じたのです!」と言えば、これはいよいよ「米軍との一体化」になってしまうのではないか(あれだけ「米軍との一体化」に反対して見せた野党のお歴々は、この矛盾をどうお考えだろうか……)。
岡田氏だけでなく、安保法案反対派の中には「個別的自衛権で対応可能」とする声は多くあったが、個別的自衛権なら拡張してもいい、というのは危険な考えである。
「日本を守るため、という前提があるなら公海上で米軍だけがやられたケースでも個別的自衛権で対応可能」と言ってしまうと、「日本を守るため」の防衛ラインを「ここまではOK」「もうちょっといける」と移動させていけば、地理的制約を突破できてしまうことになるのではないか。
個別的だろうが集団的だろうが、勝手な解釈の元に乱用すれば問題なのは言うまでもないことだ。「政府だって憲法違反をやっている」という意見もあろうが、だからと言って反対派による国際法違反が許されるわけではない。
梶井彩子