表題の二人の天魔王とは足利義教と織田信長を指す。信長は義教を意識し彼の業績をなぞるように生きたが終に義教に及ばなかったとするのが明石の説。
以下もこの本に見る明石の説
そもそも信長人気が高くなったのは敗戦以後。江戸期人気のバロメータである草双紙に信長はほとんど取り上げられていない。江戸の戯作者は全く信長を取り上げなかった。明治になってからは秀吉が一番人気。その秀吉の主君として扱われただけ。
江戸期から明治を経て敗戦まで信長の存在は武田信玄、上杉謙信以下で毛利元就と同格の扱い。
今の信長像は敗戦以後作られたもの。
昭和期日本軍部は秀吉の果たせなかった夢を追いかけ無残な失敗に終わった。それとともに秀吉評価も暴落し相対的に信長が浮かび上がった。
足利義輝と三好長慶、武田信玄と上杉謙信が健在のころ、信長をこの四人より上と評価した同時代の人はいない。
軍人としての評価ー姉川、長篠は信長の戦いにあらず
姉川の戦いでは最初織田対浅井、徳川対朝倉という構図。兵力において浅井軍にはるかに優る織田軍が苦戦に陥った。一方徳川軍は兵力において遥かに優る朝倉軍相手に互角以上に戦い、浅井軍の側面を衝き織田軍の窮地を救った。結果織田徳川軍の大勝利。
ところが信長は敗走する浅井、朝倉を追撃しなかったため、両者を滅ぼすのに三年もかかった。
長篠の戦いでは、織田勢敗走寸前に徳川勢が柵の外に出て槍を主体にした部隊が武田軍の側面を衝き織田は助かった。ここからは徳川勢の独壇場で武田は敗走。
家康、秀吉が進言したにも拘らず、ここでも信長は武田を追撃せず、武田を滅ぼすのにその後七年もかかった。
信長は一般に剛毅果断、疾風迅雷といったイメージだが実は上の如く遅疑逡巡を常としたので武人として高い評価は与えられない。
尚長篠の戦いに関する渡部昇一先生の説
信長は狙いを定めて目標に弾を当てるという発想を捨て、単位時間に単位面積に一定の弾を浴びせる、つまり絶えず撃ち込むという方式を取った。これは三百年以上後第一次世界大戦の際ドイツ参謀総長代理ルーデンドルフがとった方法と同じ思想であった。私が信長を近代の創始者とするのもこの鉄砲の使い方あってこそである。
この渡部先生の御高説について明石は手厳しい。、
渡部先生は鎌倉以来の日本の合戦をまったく知りませんね。日本武士の弓を使った戦術は非常にすぐれているんです。12世紀から17世紀にかけて日本武士は戦闘集団として世界最強でした。遠矢、越矢、横矢、指矢、これらは弓を使った戦術の一例です。中略。遠矢と越矢は単位時間に単位面積に定量の矢を降らせました。(信長がやったことはこれを鉄砲に応用しただけです)
「織田がつき羽柴がこねし天下餅、座りにしままに食うは徳川」の落首がまったく事実無根であるとわかる。
青木亮
英語中国語翻訳者