現存する12の天守閣

以下の写真は最近国宝に再指定された松江城

現存する天守閣の話
天守閣が現存する城は12ある。12の中国宝は5つ。松江城、姫路城、彦根城、犬山城、松本城。今話題の弘前城天守閣は、時代が比較的新しいので国宝には指定されていない。12の中3つが四国にある。松山城、高知城、丸亀城。松山城はNHK「坂の上の雲」のロケに使われた。秋山兄弟、正岡子規の故郷。
城と言えば現存する城より消失した城がむしろ想像力を掻き立てる。

安土城
信長が琵琶湖畔に築城。その後の高層天守閣のお手本となった(もっとも信長は戦国屈指の奸雄松永弾正が造った多聞城から安土城のヒントを得たとする説もある)。1582年本能寺の変の直後謎の火災で消失。今は石垣しか残っていない。当時の安土城は琵琶湖に直接面していた。この城が地上にあったのはわずかに3年。他の天守と違って吹き抜け構造だったとする説もある。
江戸城、大阪城の石垣に比べれば随分粗末な作りだ。信長は安土城を最後の城とするつもりはなかったはずだ。石山本願寺の跡に大阪城を作ったのは秀吉だが、これは信長構想のパクリだとする説が有力。
信長が狩野永徳に描かせた安土城の屏風絵が宣教師アレッサドロ・ヴァリアーノを通じてローマ教皇庁に送られたことは確かな記録があるが、その後行方不明。

江戸城天守閣
1657年明暦の大火(別名振袖火事)で消失。その後再建されず。4代将軍家綱の政治顧問保科正之の「天守閣再建より江戸の町の復興を優先すべきだ」との建言による。それなのに水戸黄門、忠臣蔵、暴れん坊将軍の時代劇ではなぜか必ず江戸城天守閣が登場する。

古地図を見ると隅田川は江戸城外堀の一部を兼ねていたことが分る。江戸城は創建当時東京湾に直接面していた。
東京は今でも江戸城にまつまる地名がたくさん残っている。丸の内、大手町、赤坂見附、四谷見附等。桜田門と言えばこの前にある警視庁を指す隠語である。折角勝と西郷の会談で無血開城なり江戸城は戦火を免れたが、関東大震災、戦災等により江戸時代の建造物は灰燼に帰した。今ある建物は戦後建てられたものがほとんど。

大阪城天守閣
秀吉の大阪城は1615年大阪夏の陣で消失。その跡地に徳川が天守閣を再建するが1665年落雷による火災で消失、以後再建されなかった。大阪城については岡本良一著「大阪城(岩波新書)」が詳しい。大阪城に限らず避雷針を知らなかった往時各地の天守閣は相当落雷の被害に遭ったはずだ。

熊本城天守閣
加藤清正が造った名城。明治10年西南戦争で消失。本来城はすべて軍事施設として作られたが実際に戦争に役立ったのは皮肉にも江戸時代以降大阪城を別とすれば熊本城だけである。それも明治政府の官軍のために。

名古屋城
尾張名古屋は城でもつ。天守閣は昭和20年の年空襲で消失。現在本丸御殿復原工事中。一部は完成し一般公開されている。完成予定は2022年。他に空襲で消失した天守閣には岡山城がある。空襲による消失と言えば姫路城も空襲を受けたが幸い焼夷弾が不発で被災を免れた。
尾張徳川は東海道の要衝を占める土地柄御三家中格式禄高共最も高かった。西国外様の雄藩が反徳川に蹶起した時の防波堤の役を期待されたが、八代将軍選出を巡り紀伊藩と尾張藩が激しく対立したため、吉宗は、以後尾張藩から将軍を出さない仕組みを作った。それが御三卿。このことがあって尾張徳川は終に将軍職とは無縁であった。

水戸藩主が副将軍と呼ばれたのは御三家中唯一参勤交代を免除され常に江戸にいたため俗にそう呼ばれただけで正式の官職ではない。まして水戸藩主が自ら副将軍と称することは決してなかった。黄門のドラマで最後に助さん格さんが「前(さき)の副将軍水戸光圀公なるぞ」と言うが、完全なフィクション。 
そもそも水戸藩は、紀伊、尾張が大納言であったの対し一格下の中納言(黄門とは中納言のこと)。これからも水戸から将軍を出すことは想定されていなかったことが分る。

京都二条城
ご存知大政奉還の舞台となった城。徳川慶喜はここで将軍職に就きここで将軍職を辞した。終に一度も将軍として江戸城に君臨することはなかった。元々あった天守閣も失われ礎石だけが残っている。
天守閣はシンボル的な建築で城主が普段そこで暮らしたわけではない。居住用の建物は別個建てられた。それが本丸御殿。

尚明治維新後多くの城が破壊されたのは、藩主をすべて東京に住まわせたことと目的を同じくし各藩ナショナリズムの象徴をなくすことにあった。明治政府は藩意識が統一国家形成の妨げになると考えた。

今「将軍」と「幕府」はよく使われるが当時そういう言い方はしなかった。それぞれ「公方」と「公儀」。犬公方と言えば五代綱吉、米公方と言えば八代吉宗。
それを知らないと高杉晋作が将軍家茂の行列に向かって「いよー征夷大将軍!」と野次った意味が分らない。高杉は、攘夷もできない征夷大将軍を揶揄したのだ。

ところで「城」という言葉から日本人は姫路城や大阪城の天守閣を連想するが中国人はそうではない。中国語で「城」と言えば城壁に囲まれた街を意味する。城市は都市を意味する。大陸国家中国は常に外敵の脅威に晒されていたからである。こうした街造りの考え方を全土に広げたものが万里の長城。
万里の長城と言えば立派に保存管理されているのは観光客がくる北京近郊の八達嶺等ごく一部で大部分は荒れるに任されている。
歴史教科書では秦の始皇帝が万里の長城を造ったと書いてあるが現存する万里の長城は大部分明代に造られたものである。北方に追い払った蒙古人が再び南下するのを防ぐためである。

青木亮

英語中国語翻訳者