「明治天皇」に見る旅順虐殺事件の構図

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南京虐殺事件については数えきれないほど多くの本があるが、旅順虐殺事件の本を新刊書店で探すのは難しい。この違いはどこからくるのだろう?
南京虐殺は東京裁判で中支那方面軍司令官松井石根が責任を追及されただけでなく現地の裁判で多数の日本軍人が裁かれた上に今でも中国政府は「南京虐殺記念館」を作り国民に宣伝教育を行っている。

これに反し旅順虐殺事件を中国政府が問題にすることはないので、敢えて反論するまでもないと多くの日本人は考えているのかもしれない。刑事事件ならそれでも構わないが歴史を扱う公正な態度とは言えないだろう。

この事件に関する優れた研究には井上晴樹「旅順虐殺事件」があるが、残念ながら手元にないので、ここでは主としてドナルド・キーンの「明治天皇」第三巻第45章「旅順虐殺を目撃す」からの孫引きによる。

旅順虐殺の第一報はロンドンタイムズ特派員トーマス・コーウェンの記事であった。コーウェンは明治27年11月末広島で外相陸奥に会い事件の詳細を伝える。その直後陸奥が東京の外務次官林董に宛てた電文
今日タイムズ通信員にして旅順口より帰りたる者に面会せしに、日本軍は戦勝後随分乱暴なる挙動あり。捕虜を縛りたる儘に殺害し、もしくは平民特に婦人までを殺したることも事実なるが如く、この事実は欧米各新聞社が目撃せしのみならず、各国艦隊の士官特に英国海軍中将なども実地を見たりと云う。

日本政府公式見解
民間人も戦闘に参加し、家々から発砲していた。そこで日本軍は彼らを根絶しなければならないと決意した。日本軍を更に激昂させたのは、生きたまま火炙りにされ、又手足を切断された日本兵捕虜の死体を見たことだった。

コーウェン自身の体験
日本軍の勝利後4日間彼は旅順市内に留まった。市内ではほとんど抵抗がなかったにも関わらず、ほとんど全ての男が虐殺されその煽りをくって婦女子もいた。日本兵は全市で略奪行為をはたらいた。
衣服を剥がされ両手を後に縛られた多くの清国兵捕虜が刀で切り刻まれ切り裂かれていたのを見た。人によっては腸が引き出され手足が切断されていた。多くの死体は部分的に焼け焦げていた。

日本政府の対応
外国報道機関を買収して日本に有利な報道を打電させた。ロイター、ワシントン・ポストなど。多くの外国人記者も補助金という名の金を受け取り事実上買収された(筆者注:明治の政治家はこうした裏の外交戦も巧みであった。今同じことを中国、韓国が行っている)。
国内報道機関に対しては軍の検閲を始めた。

こうした日本の対応にも関わらず、この事件は日本の国際的声望を傷つけただけでなく、日米改正条約批准の遅れ等実害もあった。

この章を読んでやや奇異の念を懐いたのは、清国が特にこの事件を問題とした形跡がないことだ。下関講和会議でも問題になっていない。だからこの事件はなかったとする論者も或いはいるかもしれないが私はそうは思わない。
戦争中のそうした残虐行為は、欧米人から見るとトンデモナイことでも中国ではありふれたことであって取り立てて問題とするまでもないと清国政府は考えたのではないか。敗色濃厚となれば、兵士が軍服を脱ぎ捨て一般市民の間に逃げ込むのも中国ではありふれたことだ(これを便衣兵という。便衣とは私服、普段着のこと)。

中国の兵士は捕虜としての権利義務を教わることもないし捕虜を丁重に扱うルールも知らない。日本は戦う相手が悪かったのかもしれない。
更に付け加えると人を殺すことにすぐ慣れっこになる戦場心理や人種的優越感もあったのではないか。

日本の名誉のために付言すると、後の北清事変では柴五郎中佐(後大将)が率いる日本軍が北京の列強公使館救出に尽力した際、その厳格な軍規が日本軍の声価を高め、イギリスを日英同盟に踏み切らせる一つの動因となったほどだ。映画「北京の55日」はこの事件を描いている。柴五郎中佐の役は伊丹十三。

南京虐殺事件を論じる人は是非井上晴樹「旅順虐殺事件」を参照されたい。

青木亮

英語中国語翻訳者