「日本人の美意識」の虚実 

       
日本人は自然や伝統的な町並みを大切にし、その美しさ、清らかさの維持、保存を心がける。洗練された美意識を持ち、それが町並みや衣食住の文化に表れている--。

これが知識層を中心にした多くの日本人の自己評価であり、そこには誇らしい気持ちがある。

だが、古美術や日本の伝統芸能を研究する米国の東洋文化研究者、アレックス・カー氏は「日本人は景観を大切にしない」と一蹴する。カー氏は日本に長く在住、京都の民家を舞台にした滞在型宿泊施設まで運営する日本通だ。その経験に基づき「ニッポン景観論」(集英社新書)を著しており、指摘は具体的で痛烈だ。

以下は、カー氏へのNBオンラインでの清野由美氏のインタビュー(12月4日)から抜粋した。

たとえば、京都の三十三間堂の前には電線が張り巡らされ、大きな看板が我が物顔に立てられている。日本人の多くは「これほど汚れた、場違いなものが日本の素晴らしい文化遺産である三十三間堂の周囲にあるわけがない」と思い込んでいる。だが、実際には存在する。

同様の光景は京都市内のみならず、多くの名所旧跡地に見られるし、普通の町並みともなると小売店や飲食店の巨大看板や自販機、電線が林立し、醜悪ともいえる景観は珍しくない。なぜ、こうなるのか。

<カー 「あるわけがない」という思い込み。たとえ見ていたとしても、頭の中でフォトショットを働かせて、そこだけ消し去っているんですよ。僕が『ニッポン景観論』を書いた動機のひとつが、その「意識」に対するものですね。みんな「日本は美しい」という意識を頭の中に持っていて、現実を見ようとしていないんです。>

なぜか。カー氏は「日本は美しい国なんだから、という日本人の意識はワクチンみたいなもので、免疫ができてしまっていて、どんなひどい景観を見ても感じなくなっている」と手厳しい。

<カー 汚い景観に慣れてしまって、景色を見る時でも、「こっちはヘンな看板があるけれど、あっちの田んぼはきれいだ」というふうに脳の中で使い分けているんです。たとえばフランスやイタリアでは、都会から田舎に向かって車で何時間走っても、景色はずっときれいなままです。でも日本に帰ってきたら、1分もたたないうちに、看板とか電線とか醜いものが目に入ってくる。僕はこのごろ電車で移動する時は、席についてすぐにブラインドを下ろすようにしています。10年前まではまだ残っていた「普通の」「何気ない」風景すら、今ではもうなくなってしまっていて、どこを見ても看板や、景色にそぐわない派手な建物がある。悲しい思いにとらわれてしまうんです。>

こう指摘されると、うーんとうならざるを得ない。当っているからだ。カー氏は追及の手を緩めない。

<カー (日本人は)現状の景観に対して「嫌だな」という思いすら持っていないことが、大きな問題なんですよ。……ワクチンがよほど強烈なんですね。>

本来、こうした光景は経済成長期にある発展途上国、新興国にみられる。貧しく、インフラが整っていないので、自然や伝統的な町並みを壊し山を削って新しい町を作り、道路や橋を建てる。ある程度の生活水準の向上のためにはやむを得ない面がある。

今でもインドやパキスタン、イランなどはそうだ。昔は欧米も同様で、「ローマやパリでも都市からちょっと離れると、やっぱりごたごたしたヘンな光景はあった」とカー氏は認める。

だが、欧米はその時期をとうに卒業し、町並みや自然を大事にする慣習が根付いている。なのに、先進国の仲間入りをしたはずの日本はいつまでも途上国並みの景観にとどまっている。なぜか。

私が思うに、1つは、政府や自治体が景観の保存に力を入れないからだ。その背景には景観をそれほど重視しない国民、市民の意識がある。国民は電気、ガス、水道、橋、道路などのインフラの欠陥、未整備は厳しく追及する。だから、政治家も役人もその整備には尽力する。

しかし、景観に文句をつける市民(国民)は少ない。たとえ、寺社や伝統的な町家のある地域に電線が張り巡っていようと、個々に「嫌だな」とは思う人はいても、電線を地中化し、電信柱をなくせという統一的な運動にまでなかなか発展しない。だから、景観保存は政治家の票にならない。

むしろ「家や店を新改築する際や看板を架け替える際は伝統的な町並みの色やデザインに沿うように、派手なものにしないよう心がけよ」などといった、景観条例などの厳しい規制をつけると、市民、町民の反発を食う。

「店の色やデザインが看板を目立たないように、小さく、地味な色やデザインにしてお客が来なかったら、その責任はだれがとってくれるんだ」「自分は原色を使ったほかにはない個性的な外見の家が造りたいんだ。オレも自由だろう」ねじ込まれたら、黙ってしまうのだ。

町全体の景観よりも個々の商店、オフィス、サービス業の営業の自由、個々の住民の住生活の自由を優先させる。ゴミを集めてゴミ屋敷のようにして暮らすといった、周辺住民に迷惑をかけない限り、住民の自由を尊重する、ともいえる。

景観を尊重する価値観が乏しく、商売や個人趣味の優先の社会になってしまっているのだ。

これがドイツなど欧米では庭や窓ガラスの掃除を怠っただけで、向こう三間両隣の住民から、「町の美観を損ねるから掃除しなさい」とクレームをつけられるという。それほど住民は町の景観を重視して暮らしている。周囲の住宅の色調とかけ離れたけばけばしい家を建てようとすれば、即刻住民や自治体から「待った」がかかる。

個々の商店や住民にとっては日本より不自由だが、それが景観を保つ。

日本は戦後の地域社会の崩壊や核家族化もあって、「隣は何をする人ぞ」と知らない同士が暮らしている町もふえた。でも、個々の日本人に美意識はある。日本の町並みや自然は美しく保存されて欲しいと思っている日本人も多い。

だが、ドイツ人のように強く主張できるほどの価値観、主体性が乏しい。「看板を小さくしてオレの商売がうまく行かなかったらどうしてくれる」「景観保持したからといって、市民生活が便利に安全になるわけでもない。電線を地中化する予算を立てるくらいなら、ほかにやることはいっぱいある」と言われると、強く反論する自信がない。この辺が「日本の美」を大事にしたいと思っている日本人の意識ではなかろうか。

美意識はあるが、強く主張はできない。で、美しくない光景を見ても、見てみないフリをしている。カー氏に言わせれば、「こっちはヘンな看板があるけれど、あっちの田んぼはきれいだ」というふうに脳の中で使い分けるワクチンが働いている、というわけだ(私も含めて)。

でも、いつまでもそこにとどまっていてはいけないとも思っている。カー氏は言う。

<最近は、日本でも(景観に対する意識を国全体で変えて行かなければならないという)考え方が少しは浸透してきて、古い町並み保存に行政のお金も投じられるようになってきました。「日本人は足元の汚い景観に気付いていません」と僕は言いましたが、気付いている人はちゃんと気付いていて、だからこそ『ニッポン景観論』のような本もみなさんに読まれているのだと思います。>

低成長、成熟社会の日本。ぜひ景観保存に尽力する政治行政にし、国民がそれを後押しするようになってほしい、と思う。