池田信夫
アゴラ研究所所長
福島第一原発事故による放射線被害はなく、被災者は帰宅を始めている。史上最大級の地震に直撃された事故が大惨事にならなかったのは幸いだが、この結果を喜んでいない人々がいる。事故の直後に「何万人も死ぬ」とか「3000万人が避難しろ」などと騒いだマスコミだ。
特に事故を受けて「原発ゼロ」キャンペーンを張った朝日新聞は「原発事故で鼻血が出た」などという荒唐無稽な報道を繰り返し、最近も「甲状腺癌が50倍も増えた」とか「白血病になった」などと嘘の上塗りをしている。これはかつて慰安婦問題で彼らのやった偽キャンペーンと同じだ。彼らは歴史から何を学んだのだろうか。
「メルトダウン」の被害は過大評価されていた
2011年3月11日の前に「炉心溶融」という言葉を知っていた人は少ないだろう。私はその数少ない一人だった。私がNHKに入った初任地の愛媛県に四国電力の伊方原発あり、私が赴任したのはちょうどその運転差し止め訴訟の一審判決で原告(住民側)が負けた1978年だったからだ。
その後も控訴審を取材したが、被告(国側)が「10億年に1度しか起こらない」と主張していた炉心溶融が、1979年のスリーマイル島と1986年のチェルノブイリと、10年に2回も起こった。「安全神話」は崩れたのではないか——という番組をつくったら、四国電力に記者会見で「NHKの番組は偏向している」と批判された。
この訴訟は最高裁まで行って原告が敗訴したが、内容的には原告の勝ちだった。「炉心溶融の確率はゼロではない」という彼らの主張が事実によって証明されたからだ。しかし間違っていたのは被害の規模だった。原告は「3万人以上の死者が出る」と主張し、国側も大きな被害が出る可能性は認めたが、双方とも被害を過大評価していたのだ。
当時「メルトダウン」として想定されていたのは、何らかの原因で核反応が制御できなくなり、ECCS(緊急炉心冷却装置)も機能せず、核反応で燃料棒が溶けて圧力容器とその外側の格納容器を貫通し、地中に出て地下水と反応して大爆発を起こす——という事故だった。
こういう事故は工学的にありうるというのが原告側の主張だった。核反応が暴走すると燃料棒の温度は数千度になり、圧力容器や格納容器の金属の融点を超えるので、急速に過熱した場合は原子炉の中に閉じ込めておくことは不可能だ。
しかし燃料棒が地中に出てから何が起こるかは、はっきりしなかった。核燃料の含む放射性物質は非常に多いので、大気中に「死の灰」として降り注ぐと、数万人分の致死量になる可能性がある。それがすべて大気中に出ることは考えにくいが、きわめて深刻な事故である。
だから3・11のときは驚いた。その日の深夜に報道された首相官邸のメモに「(予測)24:50 燃料溶融」と書かれていたからだ。夜を徹して放送されたNHKの番組では、関村直人氏(東大教授)が「原子炉は安定しており、まったく問題ない」と繰り返していたが、私はブログで「炉内の圧力が上がっているのは原子炉を制御できていないことを示す」ので、安定しているとはいえないと書いた。
ECCSは作動したが、電源が切れたため冷却水が循環せず、炉内の気圧が高まった。これは危険な状態だが、核燃料が格納容器の中に閉じ込められている限り、致命的な事故にはならない——というのが、私を含めて原発の構造を知っている人の第一印象だった。
福島の最大の被害は無知なマスコミの「情報汚染」
しかし事故が起こった瞬間に、こういう原発の構造を知っている記者はほとんどいなかった。彼らは圧力容器と格納容器の区別もつかず、「原発が爆発した」という大見出しの誤報を世界に流した。この第一報の影響は大きく、いったん「大量の死者が出る」という恐怖が広がると大規模な避難が行なわれ、それがますます大事故だという印象を強め、実際には何も被害が出ていないのに、全国にパニックが起こった。
危険な炉心溶融が起こっているかどうかは、当時は炉内の状況が把握できないのではっきりしなかったが、結果的には冷却水が蒸発して燃料がゆるやかに溶融し、圧力容器を貫通する「メルトスルー」が起こったと考えられている。
しかし核燃料は格納容器の中に収まったので、それが地中に放出される「メルトダウン」とは区別すべきだ。原子炉の外に出たのは放射性物質を含む蒸気だけで、住民の被曝量もチェルノブイリ事故の1/1000以下と推定されている。
1986年に起こったチェルノブイリ事故は、単なるメルトダウンではなく、人為的に冷却材を抜いて暴走を起こして原子炉が爆発し、過熱した放射性物質が成層圏まで上昇して全欧に降り注いだ。これは日本の原発では起こりえない最悪の事故だった。今後も、これ以上ひどい事故は起こりえないといってもよい。
そのチェルノブイリでも、2008年に国連(UNSCEAR)の行なった調査によれば、死者は60人だった。そのうち50人は原発の中に入って大量の放射線を浴びた消火作業員だった。これは事故の直後にソ連政府が情報を隠し、線量計もつけずに消火作業を行なったことが原因だった。
健康診断の結果、6000人の子供から甲状腺ガンが発見され、そのうち10人が死亡した。これは原発から降り注いだ放射性物質が牧草を食べた牛の体内で濃縮され、それをソ連政府が出荷停止しなかったためだ。
この10人が「死の灰」による死者のすべてで、それ以外にはウクライナでもロシアでも発癌率は上昇していない。放射線被曝による晩発性障害は平均25年で発症するといわれるので、最終的にもゼロに近いと思われる。
このように核燃料そのものが大気中に飛散したチェルノブイリでさえ放射線の死者は10人なのだから、蒸気を放出しただけの福島で大きな健康被害が出るはずがない。昨年発表された国連の報告書は「福島でも差し迫った健康リスクはない」と結論している。
しかしマスコミはいまだにこの区別もつかないまま、福島の被害を誇大に報道しているため、被災者は帰宅できず、福島の農産物は風評被害で売れない。最大の被害をもたらしているのは、マスコミによる情報汚染なのだ。
嘘を上塗りする朝日新聞
朝日新聞と提携している『ハフィントンポスト』日本版は、10月8日に「福島の子供の甲状腺がん発症率は20~50倍」という津田敏秀氏(岡山大学教授)の外国特派員協会での記者会見を報じた。他の大手紙は報じなかったほど、彼の論文はずさんなものだった。
事故では甲状腺ガンの原因になる放射性ヨウ素は風に乗って北西に流れたので、北西部の数値が高くなるはずだが、津田氏の論文では甲状腺ガンの発生率が約20倍で、濃度が最低だった南部で40倍以上になっている。これはガンの発生率が事故と無関係であることを示している。
この記事でも書いているように、福島県の検討委員会は事故当時18歳未満だった計104人が甲状腺がんと確定したことを明らかにしているが、「現時点では原発事故の影響とは考えにくい」とし、理由としてスクリーニング検査による精度の向上や、治療の必要がないのに陽性と診断する「過剰診断」を挙げている。
この記事を書いた吉野太一郎記者は、朝日新聞から出向中だ。朝日は鼻血が笑い物になったら、次は甲状腺ガンで恐怖をあおりたいようだが、さすがに本紙には載せられないので、こうして関連メディアで噂を流している。『週刊朝日』や『AERA』は、もっと露骨な反原発記事を書いている。
10月20日の朝日新聞では「原発事故後の被曝、初の労災認定 白血病の元作業員男性」という記事で、大岩ゆり記者が「原発事故への対応に伴う被曝と作業員の疾病に一定の因果関係がある」と書いている。
リードだけ読んだ読者は「ついに福島第一原発事故で被害者が出たか」と思うだろうが、よく読むと作業員は「2012年から13年まで、東京電力の協力企業の作業員として、3号機や4号機周辺で、構造物の設置や溶接の作業に当たり、14年1月に急性骨髄性白血病と診断された」。つまり原発で作業してから発症までに1年あまりしかたっていないのだ。
労災基準では、放射線業務の1年以上あとに白血病が発症した場合に労災と認定するが、厚労省は「今回の認定により科学的に被曝と健康影響の関係が証明されたものではない。『年5ミリ以上の被曝』は白血病を発症する境界ではない」と説明している。
ところが大岩記者は「一定の因果関係がある」と書く。被曝線量が100ミリシーベルトを超えると発癌率が生涯で0.5%増えるといわれるが、発症までは平均25年。チェルノブイリでも事故の5年後からだった。わずか5ミリの被曝で1年後に白血病を発症した例は、世界のどこにもない。
震災から4年半たつが、原発事故の被災地では、まだ9万人が仮設住宅で暮らしている。政府は「放射線量が年間20ミリシーベルトまでなら帰宅してよい」という基準を出しているが、いまだに多くの市町村が1ミリまで除染しないと帰宅させない。これには法的根拠も科学的根拠もないが、「1ミリまで除染しろ」という住民の要求が強いためだ。
被災地に入って現地調査した高田純氏(札幌医科大学教授)によると、もっとも線量の高い「帰還困難区域」とされる浪江町でも年間7~8ミリシーベルト程度で、すべての地域で帰宅できるが、政府は地域指定を見直さない。マスコミが「被害を過少評価する」と騒ぐからだ。
福島第一原発の廃炉作業も進展しない。膨大な汚染水の処理に、ほとんどの人手が取られているからだ。汚染水のセシウム濃度は湾内でも平均3ベクレル/リットルと、飲料水の水質基準を下回るが、政府が基準を示さないため、原発では毎日7000人の作業員が地下水を取水してポンプに移し替え、それを貯水するタンクは100万トンにのぼる。
下に続く。