写真は三鷹市禅林寺にある森鴎外の墓
3人中1人だけ異質の人が入っているといぶかしく思う人もいるかもしれないが、実は森鴎外の本職は陸軍軍医で物書きは副業。
医師の業績を、救った人命の数で計るとすれば大村さんがダントツだ。次いで野口英世、鴎外は軍医の最高位である軍医総監(中将に相当)にまで昇進したがこの点実績は皆無に等しい。
大村智さんの業績は、今日のノーベル賞授賞理由等で広く報道されているのでここでは省かせてもらう。ただ一言したいのは大村さんのことを平成の野口英世という呼び方があるようだが、それでは大村さんに失礼だ。ノーベル賞は別にしても大村さんの業績は野口よりずっと大きい。強いて云うなら平成の北里柴三郎がふさわしい。
野口英世
野口は多くの論文を発表しノーベル賞候補にもなったが、かなりの部分はその後否定され、今では最も重要な業績は梅毒の研究ということになっている。にも関わらず野口人気は一向に衰える気配がなく、お札にもなったほどだ。
日本人は悲劇の人に点数が甘い。ベートーベンが偉大であるのは耳が聞こえなくなったからではない。彼の作品が偉大であるからだ。人生が作品に影響することはあるが基本的に人生と作品の価値とは関係がない。
まして病原菌の研究者である野口の研究業績と彼の不幸な生い立ちや悲劇的な死とは何の関係もない。こんな当たり前のことを書くのもバカバカしいが、それが分からない人が多い。
テレビ朝日のクイズ番組で黄熱病病原菌の発見を野口英世の業績としていたのにはあきれた。野口はその研究中黄熱病にかかり死亡したから黄熱病は彼の死因であって研究業績ではない。そもそも黄熱病の病原菌はウィルスであって当時の光学顕微鏡では発見不可能であった。あれ以来このクイズ番組を見るのをやめた。
森鴎外
副業であれだけの文学上の業績を成し遂げたのは大したものだと賞賛する人が多いが、私に言わせれば副業に身を入れすぎたために陸軍の大問題であった脚気の原因究明に後れをとった。鴎外がそれに成功していれば日露戦争中万を超える兵士の命を救えたはずだ。鴎外が遺書で
余ハ石見人 森林太郎トシテ死セント欲ス。墓ハ 森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス
と書き、墓に一切の栄爵勲等を彫ってはならないと遺言したのは、日露戦争中多くの命を救えず内心忸怩たるものがあったためと私は忖度する。
尚鴎外の墓は太宰治も眠る三鷹市禅林寺にある。冒頭の写真を参照
脚気について付言すれば鴎外は脚気菌なるものが存在すると考えた。これに反し海軍軍医の高木兼寛は白米を主食とする陸軍に脚気が多発し、パン食の海軍には脚気がないことから栄養の問題だと考えた。高木の着眼はよかったが、脚気の根絶には鈴木梅太郎のビタミンB1発見まで待たねばならなかった。
本題から逸れるが鴎外と同郷の人西周(にしあまね)に触れたい。
西周は鴎外と同じ石見津和野の人。2人は遠縁に当たる。山陰の小さな町から明治を代表する大知識人が2人出たことになる。ともに長州閥でもないのに陸軍の法皇山県有朋に重用された。
西周は日本史や文学史の教科書では「明六社」の発起人としてちょっと出てくるだけだ。これは縦割り教科書の悪いところで西周は山県の下で陸軍軍制の確立、軍人勅諭の発布に深く関わっており歴史的にはこっちが重要である。
同じように教科書では作家としての鴎外しか取り上げない。執筆者の担当外であるためそこで軍医としての業績(マイナス業績を含めて)に触れることはない。
日露戦争中第二軍管理部長であった石光真清と森鴎外とのエピソードについては「陸軍を通して明治大正を知る」の中で書いたので参照されたい。
青木亮
英語中国語翻訳者