以下、全て推測、私は学者でも専門家でもないから、そのように読んでほしい。
芥川龍之介の文章は、五感を刺激するという。すなわち、目で見て、耳で聞いて、舌で味わって、匂いを嗅いで、肌で感じる、文章表現としてバランスよく配置されている。
では音楽は、五感をどこまで刺激するのか? 耳で聞くのはもちろん、演奏風景を目で見て、重低音は肌で感じられる。しかし「味」「匂い」はどうだろうか? 古代の音楽が祭りと切り離せなかったのは、そこに足りない「味」と「匂い」を補うためだろう。
人間の言語機能と結びつくのは、感覚のうちで「視覚」「聴覚」「触覚」だ。文字を目で見る。言葉を耳で聞く。文字版を触って読む。味覚と嗅覚では、言語を識別できない。味覚と嗅覚が足りないという意味で、「音楽」とは「言葉」のことだろうか?
言葉を知らない野生の狼少年に音楽を奏でたら、彼は音楽に何かを感じるか? それとも、自然の中で生じる1つの「音」として、その「音」に特別な意味を与えることなく、何も感じないか? 街中で自分の好きな曲が流れると、たとえそこが喧騒の只中にあったとしてもその曲だけを聞き分けることができる。この聞き分けは、音楽の言語性ゆえか。
動物や昆虫の中でも、種によっては音楽に影響を受けることがわかってきた。穏やかな音楽を流すと穏やかになり、激しい音楽では高揚する。あるリズムを流すとそのリズムに合わせ体を動かし、遅くしたり速くしたりしても、ちゃんとそのリズムに体を合わせてくる。類人猿にも言葉があることがわかってきたのだから、動物や昆虫が音楽に影響を受けるのも不思議なことではない。
ところで、「音」の始まりはいつだったのだろうか?
例えば「色」はいつから存在したのだろう? 地球上に昆虫だけしか存在しなかった時代には、人間が想像する世界の色とはまるで違っていた。人間と他の生物とは、色の識別がまるで違うからである。だから現在見えている世界の色は、人間が生まれて初めて、この世に生まれたのだと思う。
同じように、「音」の始まりは、ビッグバンの爆音が最初だったのではない。聴覚をもつ生物が生まれて初めて、音が生まれたのだ。だとすると音が生まれるまでは何億年もかかったようだ。星々の生成消滅は、無音で行われたに違いない。
そして長い年月を経て、人間が現れた。「言葉」が戦争における協調行動の手段として発達した、という話があるが、戦争における言葉の延長として、言葉よりもより大きく遠くへ伝達する方法として、言葉のあとに「音楽」が生まれたのか。いや、人間と人間が戦う戦争以前の話、猛獣への威嚇や、危険の察知として、原初の叫びから音楽は生まれ、それは言葉より先だったのか。言葉、音楽、戦争。卵が先か、鶏が先か。
私は、音楽は言葉であり、言葉のあとに音楽が生まれたと思う。現代スポーツの凶暴性が戦争への名残だとしたら、現代音楽はその産みの親とも言うべき「言葉」を忘れるための存在に変容してきていると思う。音楽を聞くとき、始めは能動的に「聞き」はじめ、次いで受動的に「聴く」ようになる。そして最後には忘我の状態になり、言葉を忘れる。素晴らしい生演奏を前にしたとき、私はそのようになった。
音楽は言葉から生まれ、そして言葉を忘れるための道具になった。
鈴木 健介
バックパッカー。訪問42ヶ国。
音楽家。休止中。CD「善悪無記の形相」「ドクサ」発売中。早大卒。
旅での思索を書いた日記、「けんすけのこばなし」より