最新の英国犯罪学で日本の子どもの貧困問題を考察 --- 平 勇輝

b13e440d3423a291920baca8bc186ae6_s
▲海外メディアでも報じられる日本の貧困(写真はイメージ、アゴラ編集部作成)

「ティッシュを食べる親子」の記事から提起した日本の貧困実態


19日付の朝日新聞デジタルのトップページに衝撃的なタイトルの記事がありました。昨今、注目を浴びている子どもの貧困を取り上げたものです。淡々とした調子で描かれる8歳と9歳の2人の娘と派遣社員として工場で勤務する30歳の母親の3人暮らしの実態は、痛々しい程に生々しく、惨めで、不憫なものです。

子どもの貧困とは、貧困ライン(等価可処分所得の中央値の半分)以下で暮らしている17歳以下の子どもの存在を意味し、厚生労働省が公開した「平成25年国民生活基礎調査の概況」では、平成24年度時点での基準額として、年額等価可処分所得122万円と定義されています。この調査では、平成24年度の子どもの貧困率が16.3%と過去最高の割合となったことが明らかにされました。

平成22年に実施された前回調査では15.7%、平成18年度の前々回調査では14.2%でしたので、徐々に状況が悪化していることが見て取れます。世界でも有数な経済大国である日本のどこかで、今も尚、数多くの子どもたちが満足に食事も医療も提供されない生活に悶え苦みながら耐えているという事実は、なかなか受け入れ難いものです。

日本には、貧困に苦しむ人々のために様々なセーフティーネットが用意されています。生活保護制度はその代表格ですが、生活保護費の不正受給やパチンコ等の娯楽に費やすケース等が問題視され始めたことで、生活保護受給者を取り巻く周囲の環境はより一層厳しいものになっていることは想像に難くありません。実際には、不正受給に相当するケースは全体の1%にも満たない微々たるもので、一部の人々の行為のために制度に頼る貧困層の人々全体が批判の目に晒されているといった構図です。

貧困状態の人を責めても意味はない


そもそも貧困状態に陥っている人々を攻め立てる行為それ自体にはまったく意味がなく、問題解決にも至りません。貧困に喘ぐ人々の中に、煙草や酒、パチンコ等といった娯楽に少ないお金を費やしてしまう人もいますが、こうした極端な状況に陥ってしまえば、誰しもが短絡的思考になってしまうのは容易に想像できることです。

貧困層のいない社会こそ健全な社会であって、購買力のある中産階級層が厚くなれば全体的な経済が良くなることは、経済学の基本と考えらています。

人間には元来、互いに助け合うという本能があるといいます。これは、来年公開予定の映画「オデッセイ(The Martian)」にも用いられたフレーズです。

貧困問題の解決のカギになるのは


しかしながら、実態はそう美しいものではなく、貧困問題は、理論上解決可能なものの、様々な社会的政治的理由のためずっと解決されずにいる問題の1つとして残り続けてきました。地球上では、総人口以上もの人々を養えるだけの食糧が生産されているそうですが、それでも上述の新聞記事の少女達のように、ティッシュを食べて空腹を紛らわせなければならない人々がいる訳です。

貧困問題それ自体は、多くの人々にとって解決しなければならない問題であることに間違いはありませんが、貧困に苦しむ人々への誤解や偏見の解消、適切な支援制度の導入なしには問題解決には至らないものです。問題解決のカギは、貧困に苦しむ人々ではなく、貧困に苦しむ人々を救える人々の意識改革にあり、いかに貧困ライン以上の人々から少しばかりの金銭的負担を求められるかにあります。

安定した生活を持続的に送るために一定額の資金が最初に必要であることは誰もが知っていますが、貧困ライン以下で暮らす子ども達に最低限度の文化的生活を送ってもらうためには、これまで以上に手厚いサポートをしなければなりません。

こうした大規模な取り組みを国家レベルで行えるのは政府しかありません。もともと政府には全ての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む上で必要な施策を講じなければならない義務がありますが、厚生労働省の統計データでも明らかになったように、政府のこれまでの取り組みは、問題解決はおろか問題を悪化させているといった状況です。もっと真剣に効果的な取り組みを練ってもらうためには、政府にも意識改革をしてもらうが必要があるのかもしれません。

英犯罪学で注目「ゼミオロジー」的視点でみる子どもの貧困


前章では、徐々に深刻化する日本の子どもの貧困問題について、その概要をお伝えしました。本章では、子どもの貧困問題を解決する上で、大いに視野を広げるヒントをもたらしうる学問である、ゼミオロジー(Zemiology)と呼ばれる、ここ最近イギリス犯罪学でとりわけ注目を浴びている学問についてご紹介したいと思います。適切な和訳がないのでここでは「社会的損害学」と呼ぶことにします。

社会的損害学とは、社会的損害(Social Harm)を研究対象とした学問で、既存の犯罪学の中心的概念である個人的損害(Individual-based Harm)を否定し、新たに国家や大企業による有害な行為を犯罪の概念とする考え方です。例えば、一人の個人がナイフを用いてある人を殺した場合、現行刑法では殺人罪として刺した本人は罰せられます。ところが、多くの国の刑法では、ある国の政府や企業の作為もしくは不作為によって引き起こされた大規模な社会的損害(移民制限、戦争、失業や貧困問題等)に対する効果的な刑事的処罰手段がありません。

社会的損害度に応じて優先施策を選ぶ手法


国や大企業のトップが責任をとって辞任する場合や多額の罰金を払う場合はもちろんありますが、個人の犯罪者を収監し罰するのと決定的に異なるのは、責任者を罰するだけではすぐに問題解決に至らないという点です。また、政府や大企業には問題を隠蔽したり過小評価するだけの能力としようとする動機が十分にあるため、問題が極端に悪化しない限り、話題にも上がらない場合も多い傾向にあります。

社会的損害学は、既存の犯罪という概念を改め、社会的損害度に応じて、優先度の高い問題に対して必要な施策をとるようことを求めている、という訳です。そういった意味で、貧困問題は、多くの人々の生活に深刻な影響を与えているという点で社会的損害が極めて大きい問題と言えます。

こうした社会的損害学的視点をもう少し広げると、現行刑法を個人の行為に対する処罰を定めたものから、企業や大企業の作為または不作為を原因とする社会的損害に対しても、法的責任と義務という観点から組織を処罰できるよう変えていくように求めていくこともできるようになります。貧困問題に対して効果的な施策をとらないことを犯罪とする意識と、貧困状態にある人々に対して社会全体が連帯して支援する意識の両方が芽生えば、子どもの貧困という問題は過去の産物になるはずです。

時には政府に「鞭」を使って解決させる


ここ最近、政府は、所得増税等で国民に色々と頼みごとをしているので、国民もそろそろ政府に対して子どもの貧困問題くらいすぐに解決するよう求めても良いのかもしれません。

解決できるはずなのに解決されていない問題を解決するためには、「飴と鞭」の中でも、鞭を使った方がいいーー社会的損害学という学問は、そんな考え方を私達国民に教えているのです。

平 勇輝(たいらゆうき)・ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校法学部犯罪社会学部所属、ロンドン大学キングス・カレッジ校国際安全保障研究センター非常勤研究員