人権という名の罠(2)覇権主義からの脱却を --- 竹沢 尚一郎

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人権の名による覇権主義


たしかに人権は基本的かつ最重要な概念であり、あらゆる国がその尊重に向かって進むことが望ましいのは、国連憲章の第1条に人権擁護がうたわれていることからも明らかである。しかし、人権侵害がなされている国家に対して、国境を越えた軍事介入や支援が可能であるという条項はどこにも存在していない。

人権尊重の名による軍事介入は、旧ユーゴに見られるように、ヨーロッパ内では一定の効果をあげることができた。しかしそれがイスラーム諸国に適応されたときには、アフガニスタン、イラク、リビア、シリアと、ことごとく失敗に終わったことは明らかである。失敗に終わっているどころか、強権政治のもとで曲がりなりにも安定していた国家と社会を解体させたことで、紛争とテロと難民を世界中に撒き散らしてきたのだ。

なぜか。他者の生命の尊重、思想・信条の自由、男女間や民族間の差別の禁止等からなる人権の概念は第2次大戦後に確立されたものでしかなく、それを主導しているのが欧米諸国であるので、その強制がイスラーム社会の反発を招いているためである。

考えれば当然であろう。今では人権の擁護者のような顔をしている欧米諸国にしても、半世紀前までは非人権的な植民地支配を強制していたし、それ以前は何世紀も戦争をくり返していた。であれば、人権の概念が確立されるためには長い時間が必要なことを前提にした上で、あらゆる国で人権の確立と人命の尊重が実現されるよう長期間の折衝と努力をおこなうことが必要なはずである。ある国で人権抑圧がなされているとしても、経済制裁を含めたあらゆる平和的手段を講じてその改善につとめるべきであり、性急な改善を求めて軍事介入や支援をおこなったことが今日の世界の混乱を招いたことを認めるべきなのだ。さもなくば、人権とイスラームという2つの原理のあいだの対立は拡大し、後者からはアルカイダやISのような鬼子が現れて、一定の支持を受けつづけるだろう。

わが国のとるべき道


自分たちで原理原則を設定し、それを文化的背景の異なる他国にまで押し付けて、それに従わない場合には軍事介入も厭わないという今日の欧米諸国の姿勢は、新たな覇権主義と呼ばれてしかるべきである。たとえ人権尊重という、それ自体としては正しい原理に基づくものであれ、その強制は許されるものではない。そのことを認めるなら、わが国がとるべき道がそれと異なってくるのは当然であろう。

安倍首相の提唱する「普通の国」なるものは、軍事力強化と集団的安全保障への参加を通じて、この欧米流の覇権主義に加担しようとする試み以外のなにものでもない。イラクでもアフガニスタンでもリビアでも、欧米諸国による軍事介入が集団的安全保障の名によって、人権抑圧を停止させることを理由としておこなわれてきたことを勘案するなら、安倍首相がめざしている「普通の国」なるものの実態は、日本をふたたび戦争に巻き込むための法的整備でしかないといわれても否定できないだろう。

わが国にとって重要なのは、憲法を理由に集団的安全保障の概念を拒絶することであり、より積極的な平和確立のための独自の政策を立案し、具体的行動を実施していくことである。たとえば、欧米流の覇権主義的な人権概念の押し付けと、異質な原理に立つイスラーム社会とのあいだの対話の不在の中で、異なる立場に立つ日本は対話の労をとることが可能なはずである。また、今日生じている千万を越える難民の生活環境の改善と彼らの能力の再開発のために、さらなる資金と自衛隊を含めた人材を提供することは世界中で評価されるだろう。第2次大戦後独自の外交を立案してこなかったわが国にとっては困難な道であるが、日本が「普通の国」になるのではなく、「普通以上の国」になるためには今後果たすべき努力である。

竹沢尚一郎
国立民族学博物館・教授