1月から始まるアゴラ経済塾は、経済学の観点から政治の失敗を分析しようというテーマなのだが、その第1回が図らずも日韓関係だ。
この問題を100年以上前に、客観的にみていたのが福沢諭吉だった。晩年の『時事小言』は、彼の「国権論」を集めたものとしてリベラルな福沢ファンには評判がよくないが、加藤典洋氏はこれを高く評価している。
敗戦でアメリカに屈服したトラウマを隠蔽することが左翼にも右翼にも共通の「戦後の嘘」だが、この背景には近代国家を「独立の主権国家」として理想化する「近代の嘘」がある、と加藤氏は指摘し、それを最初に暴いたのが福沢だという。
丸山眞男も「近代日本思想史における国家理性の概念」という論文で『時事小言』を(意外にも)高く評価している。その冒頭で、福沢は「天然の自由民権論は正道にして、人為の国権論は権道なり。或は甲[民権論]は公にして、乙[国権論]は私なりと云ふも可なり」と書く。
これは「痩我慢の説」の冒頭の「立国は私なり」という言葉と同じ、福沢の一貫した政治哲学だ。国家を公と考えて「国家理性」などと呼ぶのは欺瞞で、それは戦争のための暴力装置だから、raison d’etatは「国家の存在理由」という意味で、丸山はこれを国家利害と言い換えている。
だから福沢の「立国は私なり」という言葉は、国際政治学でいうリアリズムの先駆だった。特に彼が意識したのは、清を中心とする華夷秩序との戦いだった。日本は幸いその圏外にいたが、朝鮮は清の属国として貧窮の極にある。これを救うために、彼は朝鮮国内の「独立派」を支持したが、金玉均などの独立派はクーデタに失敗して惨殺される。
このあと起こった日清戦争に福沢は賛成し、多額の義捐金を出した。これにも批判が強いが、彼にとってこの戦争は、一足先に文明化した日本が華夷秩序に支配された朝鮮を解放する「私の戦い」だった。丸山は「国家理性」論文をこう結んでいる。
権力政治に、権力政治としての自己認識があり、国家利害が国家利害の問題として理解されているかぎり、そこには同時にそうした権力行使なり利害なりの「限界」の意識が伴っている。これに反して、権力行使がそのまま、道徳や倫理の実現であるかのように、道徳的言辞で語られれば語られるほど、そうした「限界」の自覚はうすれてゆく。「道徳」の行使にどうして「限界」があり、どうしてそれを「抑制」する必要があろうか(強調は原文)。
日韓の対立を喜んでいるのは、中国である。華夷秩序の特徴は、まさに国家を「道徳や倫理の実現」として語ることだ。中韓の「歴史問題」への執着は、彼らがいまだに華夷秩序の中にいることを示している。今回の日韓会談は、韓国の「近代の嘘」を明らかにしただけでも、安倍外交の勝利と評価していいと思う。