平和国家日本、戦闘国家米国--銃規制する国、しない国

オバマ米大統領が銃購入者の身元調査を厳格化する新たな銃規制強化策を発表した。このような試みは過去、何度も米国で行われているが、いずれも失敗している。今回も共和党の多数の議員が反対するなど、抵抗は強く、有効な規制にならないだろうという見方が強い。

米国民は自分で自分を守る権利を強く意識し、憲法でも保障している国家だからだ。

日本は豊臣秀吉の刀狩り以来、農民や町民は原則として銃刀を持たなかった。実際には所持を許された地方もあり、一揆の際などに活用された例もあるようだが、基本的には銃刀を持たない社会が当時から実現。江戸時代は「戦(いくさ)はお侍様のするもの」という考え方が徹底していた。

欧州でも日本ほどでないにせよ、銃刀は軍隊や警察が所有し、民間人は制限される社会となっており、米国とは異なる。

これには17世紀の思想家トマス.ホッブズ以来の考え方が背景にある。ホッブスは「自然状態においては人は(自分の欲望を満たすために、あるいは自分を守るために)他人に対して狼となる。自然状態は『万人の万人に対する戦い』の場にほかならない」と考えた。

この悲惨な争いを克服するために、社会契約によって各人が同時に自然権を放棄し,国家を形成し,この保護のもとに平和と安全を達成するしかないとの社会契約説が展開された。これが各国の政治、行政に反映され、欧州では曲りなりに銃刀規制が普及した。

ところが、欧州から移住した清教徒集団が作ったアメリカでは、この考え方が浸透しなかった。「国家の保護のもと」に置かれるのはまっぴら御免、自分の身は自分で守ると、「万人との戦い」に備える人々が今もたくさんいるのだ。

米国は近代国家のような顔をしていて、ホッブスの言う社会契約も実現していない暴力の横行する野蛮な社会と言える。

清教徒が米国に渡ったていた17世紀に、早くも刀狩りで「万人による万人の戦い」を制限してしまった平和国家・日本とは対照的である。どちらの方が優れた社会か。日本であるのは自明だろう。

江戸時代、日本では島原の乱、農民一揆など一部に戦乱、闘争が見られたものの、大体においては平和だった。赤穂浪士の討ち入りがその後、繰り返し語り継がれたのも、極めて珍しい出来事だったからに違いない。

その太平の眠りを覚ましたのが、日本に開国を迫った米国の蒸気船だった。その時から日本は列強の侵略、植民地化を防ぐために富国強兵の道に進んだのだった。

戦前の日本は、平和国家ではなく、侵略的な軍事国家に変貌したといわれている。だが、それを断罪する東京裁判を主宰した連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥は、東京裁判の判決から2年半後の1951年5月、米上院軍事外交委員会で「日本は自衛のために戦わざるをえなかった」という趣旨の証言をした。

マッカーサー元帥は、無辜の非戦闘員が暮らす東京をはじめ全国の都市を空襲し、広島、長崎に原爆を投下した野蛮な行為を反省していたのかも知れない。