歓楽極まりて哀情多し

「酒をきわめれば乱れあり、楽しみをきわめれば悲しみあり」。いや万事みなそのとおりでして、「きわめる」といけない。「きわめる」とおとろえるのだ--此の淳于髠(じゅんうこん)の言葉は、司馬遷の『史記』の「滑稽列伝」という章にあります。


之は言わば、「過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし」(先進第十一の十六)ということです。『論語』の「雍也第六の二十九」に「中庸の徳たるや、其れ至れるかな・・・中庸は道徳の規範として、最高至上である」という孔子の言葉があります。

此の中庸とは、『論語』の中に一貫して流れている孔子の教えで、平たく言うと「バランス」を指している大変重要な概念です。こうした中庸の徳から外れたらば、何事も最終的には問題が様々生じてくるというわけです。

中庸の徳は、若くして身に付けられません。また抽象的な概念であるだけに、その考え方も簡単には理解できません。中庸という語を国語辞書で見てみれば、「かたよることなく、常に変わらないこと」とか「過不足がなく調和がとれていること」等と書かれています。

此の中庸の「庸」には、如何なる時も常に心の状態を一定に保つ「恒心」という意味が含まれているのです。また東洋思想家の安岡正篤先生は「庸」の字には、あらゆるものを包括して行く・受け入れて行くといった意味があると述べられています。

そして中庸の「中」には、一歩進むという意味があるとされます。常時変わらぬ心を持って全てを受け入れながら、一歩前に進んで行くのが中庸であるとも言えましょう。中庸とは、「無難」や「折衷」あるいは「間をとる」といった概念とは、似て非なるものなのです。

中庸とは、西洋哲学の「正反合」の「合」に当たるものだと思います。より高い次元での「合」に達すべく此の正反合を進む中で一つの妥協点を見出し行くものですから、物事の平均値や中間点の類として捉えるものではないのです。

前漢・武帝の詩「秋風辞(しゅうふうのじ)」の一節にも、「歓楽極(きわ)まりて哀情(あいじよう)多し」とあります。此の「歓楽極兮哀情多」も冒頭の「酒極則乱、楽極則悲」も同様に、中国古典思想の一つ「中庸」が如何に大事かを説くものだと言えましょう。

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