7月の参院選に向けて「憲法改正議論」は本格化する


▲憲法原本(Wikipediaより、アゴラ編集部)


安倍首相は衆参同日選挙を考えているようだが、これは首相専決事項故、彼の戦略眼次第だ。経済政策で自信を持つに至ればやるだろうし、自信がなくなればやらないだろう。しかし、参院の方は「自公プラス大阪維新で三分の二が取れるかどうか」のギリギリの攻防故、両陣営とも憲法改正議論は避けて通れないだろう。これは良い事だ。

野党も与党も「好機至れり」と考えて、正々堂々と戦えば良い

今回の新安保法制の成立過程では自民党はかなり強引な手法をとり、結果として一時的に内閣の不支持率が支持率を上回る事態を招いた。従って、野党側が「今回の選挙を『平和憲法を守れるかどうかの試金石』と位置付ければ必ず勝てる」と考えても全くおかしくはない。

単純なキーワードを連呼した先般のデモの「ある程度の盛り上がり」を「成功」だったと位置付けて、この戦術を次の選挙においても踏襲するべきと考える人達がいるなら、そうすればよいだろう。

この流れで、「安保法制廃案」を選挙戦の最大の論点にすれば、当然「対案」を求められ、そこで足並みが揃わなくなる事は容易に想像できるが、もし共産党や「選挙上手だった小沢一郎さん」の呼びかけに民主党の岡田—枝野ラインが乗るのなら、それも覚悟したという事だ。長妻さんや細野さん、前原さんや野田さん等々がそれに同調するとはちょっと考えにくいが、「それではどうするのか?」はご当人達が決められる事だ。

先の衆院選では、与党側は安保問題を敢えて論点にしなかったが、選挙に勝てば安倍首相が何をするかは野党側には勿論読めていたわけだから、それを先取りして論点にする選択肢はあった筈だった。しかし、誰もそうしようとはしなかった。彼等が後でその事を悔やんだかどうかは定かではない。しかし、今回は正面から勝負するしかない事は明らかだ。衆参同日選挙であろうとなかろうとこの点では何の違いもない。

今回の安保論議でも、「違憲だから怪しからん」という人達の数の方が、新安保法制の内容そのものについて異を唱えた人達の数より多かった。即ち「新しい安保法制は必要かもしれないが、いい加減な解釈論で誤魔化そうという姿勢は不健全だし許せない」という人達も不支持を表明した人達の中に混じっていたという事だ。

この事を考えると、今度の選挙に臨んでは、自民党は「先の新安保法制の審議においては、憲法の問題を真正面から議論せず、安易な解釈論に逃げたというご批判を頂いた事については真摯に反省している。今回はこの問題を真正面から真剣に議論させて頂いて、国民の審判を仰ぎたい」という事が言えるので、むしろやり易いのではないかという見方もありうる。

憲法改正の問題を議論するにあたっての重要な論点

重要な論点の一つは、「安全保障政策」に関するものであり、中でも最も重要なのは、「現在の規模と装備を持った自衛隊の存在自体と本質的に矛盾していると思われる第9条2項の存在」である。

この点では、単純に第2項を削除し、「前項の規定は自衛権の発動を妨げるものではない」という条項を追加した「自民党の現在の改憲案」は簡潔であり、私は「妥当なもの」と評価したい。「集団自衛権」は、その言葉通り、勿論「自衛権」の範囲内だ。何が自衛権の範囲を超えるかを憲法で細かく定義するのは無理だから、これはその都度議論するしかない。

安全保障に関する問題でもう一つ重要なのは、「緊急事態に対してどうすれば機動的に対処出来るか」という問題であるが、これについても自民党の改正案に私は異論はない。これは普通の国が普通にやっている事であり、社民党の福島さんが例によってナチスを引き合いに出しているのは滑稽でしかない。

「安全保障政策」は如何なる国にとっても最も重要な基本政策の一つであるにも関わらず、日本ではこの問題を今まで深く議論する事もなく、誤魔化し続けてきた。幾ら何でも、こういう事態にはもうそろそろ終止符を打たねばならない。これは「国民の生命と財産、自由と尊厳を守るために何が必要か」という根源的な議論であり、「平和憲法を守れ」という主張だけではそもそも議論になっていない。この点で現在の民主党の全議員が共産党と同じ意見を持っているとはとても思えないのだが、どうだろうか?

現在の自民党の改憲案の問題点

しかし、もう一つの論点は「それ以外」であり、現在自民党が出してきている改正案はこの点でかなり問題ある。ざっと見て、何となく明治憲法に近づけたいと思っている人達の考えが随所に現れているかのようだ。この際個人的な見解を言わして貰えるなら、率直に言って私はこれには眉を顰めている。

現在の自民党の改憲案では、第1条で、折角国民の中でも馴染んできた「国民統合の象徴としての天皇」をわざわざ「元首」として規定し直す事を提案しているが、何故その必要があるかが分からない。強いて言うなら「天皇は国際的な儀礼において元首としての役割を果たす」と付記するだけで十分ではないのか?

また、第3条で「日の丸」と「君が代」について規定しているのにも首を傾げざるを得ない。国旗と国歌については既に法律で定められているので、わざわざこれを憲法に格上げする事にどのような意味があるのか? これは青木亮さんが1月4日付のアゴラの記事の中でも指摘しておられる事でもあるが、「君が代」の歌詞は「天皇に対する敬愛の気持の表現」と言えるかもしれないが、「主権在民の実態にそぐわない」とも言え、議論の残るところだ。状況によって何時でも変更が可能なように柔軟性を残しておくべきだ。

これも青木亮さんの記事の受け売りだが、第24条として新たに加えられた「家族」に関する規定も大いに問題である。前半はともかく、後半の「家族はお互いに助けあわねばならない」は「社会保障の負担を家族に代替させる」意図としか読み取れず、これを議論しだせば紛糾するだろう。

これを起草した自民党の人達は、恐らくは「教育勅語」の精神が失われたことを悲憤慷慨している人達なのだろうが、この様な「人間のあり方」に関する事は、近代国家の憲法で規定すべき事だとは思わない。近代国家の国民が国に対して一定の義務を負うのは当然だが、自らの倫理観について国にお説教をして欲しいと思っている国民は少ないだろう。(改正案を丁寧に読めば、この様なところはまだまだ出てくるかもしれないが、それは後の機会に譲りたい。)

安倍首相やその周辺には、過去を懐かしむことの多い「国家主義的な思想」を持った人達が多いのは事実だ。この人達が前面に出てきて、色々な新しい条項を加えようとすれば、改憲を支持する人達も二つに割れてしまう恐れがある。安倍首相が早い時期に「日本人が自分の手で作った憲法」を実現したいと本当に思っているなら、こんな事で全体の流れを混乱させるのは避けるべきだ。

なお、「二院制の可否」や「選挙制度」も憲法改正を議論する場合には避けて通れない重要な問題だとは思うが、これには時間がかかる。従って、現時点では結論を急がず、「これらの問題に限った憲法改正案の発議には、両院の三分の二の賛成は必要とせず、過半数の賛成で可能とする」旨決めておけばよいと思う。

現在の憲法論議の本質的な問題

私は現行憲法は第9条2項を除いては、概ね良く出来ており、変えねばならないところはそんなに多くないと思っている。しかし、それが占領軍の若手官僚の手で短期間のうちに書き上げられたものだというのは事実であるから、どうあがいても変えようがない。それ故日本語の文章としても少しおかしいところが多いのも、これまた事実である。

特に「一切の戦力を放棄した」と解釈される可能性の高い第9条2項は、「敗戦国の報復を恐れる戦勝国の考え」がそのまま現れている条項であり、「普通の国」の憲法ではあり得ない条項だ。

講和条約締結後は、日本国民の意思によって何時でも憲法は変えることはできたにも関わらずそれがなされなかったのは、それぞれに政治的な思惑があり、それ故三分の二の壁が破れなかったからだ。本来なら「警察予備隊」を「自衛隊」に変える時に憲法も改正するのが筋だったのだが、強引に解釈だけで誤魔化してしまい、今となってはその事を批判する人さえ数少ない。

それなのに、これをあたかも聖書かコーランのように神聖視し、ノーベル平和賞の候補にしようとまでした人がいるのは驚き以外の何物でもない。「日本は外国の占領軍に作ってもらった憲法を神聖視する不思議な国民(希少な絶滅種?)である」という事を世界に宣伝して嬉しいという人の精神構造は私にはとても理解できない。もしどうしてもそうしたいのなら、先ずは文章だけでもまともな日本語に直す「改憲」をして、「日本人自身の手で作った憲法である」という事実を作った上でそうするべきだ。

しかし、勿論、それだけで「国連への働きかけをした人達」を正当化できるものでは到底ない。そもそも「平和を希求する憲法」など世界中にいくらでも存在するから、日本人がもし現行憲法を世界に対して誇るとすれば、

1)「戦力の放棄」を自ら宣言して、自らの運命を赤子のように「世界の国々の善意」に委ねた「崇高な自己犠牲の精神」

2)「法を明確にして解釈の相違による紛糾を防ぐのではなく、法は曖昧にして解釈に委ねるべき」という「斬新な法理論」

の二点なのであろうが、これを支持する日本人は果たしてそんなに多いのだろうか? 普通の人間ならむしろ恥ずかしく思うのが当然ではないだろうか?

松本 徹三