自動運転車が選択する“最善の事故” --- 長谷川 良

アゴラ

独週刊誌シュピーゲル最新号(1月23日号)は自動運転車が直面するテーマに関する興味深い記事を掲載している。タイトルは「Lotterie des Sterbens」(死の富くじ)だ。以下、同記事の概要を紹介しながら、自動運転車が提示する“倫理問題”について考えてみた。

近い将来、自動車は人間がもはや運転しなくてもコンピューターで自動運転するロボット・カーが人間を目的地に安全に運んでくれる。ロボットカーは一部で既に試運転されているから、「その日」は案外、近いだろう。ちなみに、シュピーゲル誌によれば、2020年には自動運転車が高速道路を走り、その数年後には全ての道路にロボットカーが走ると予測している。

オフィス仕事で疲れた人間が自家用車で自宅に帰宅する場合や、友達と一杯飲んだ後など、車の運転は危険だ。世界で毎年、100万人以上の人間が交通事故で亡くなっている。ある者は飲酒が原因であったり、運転中に携帯電話で会話に集中し、不注意だったなど、様々な理由で事故が発生している。車の調子や故障で事故を起こすケースより、運転手に原因がある事故がほとんどだ。

だから、人間が運転しなくても目的地まで運んでくれるロボットカーの登場は朗報であり、その需要は大きいだろう。自動運転車だから人間的なミスは排除される。ロボットカーは目的地に最短距離で人間を運ぶ。信号のチェンジも前もって計算済みだから、ほとんどノンストップで走れる。交通事故件数も急減するだろう。

ここまではいいことずくめだが、新しい問題が出てくる。

路上に突然、3人の子供が飛び出したとする。ロボットカーは車に設置されたセンサーで即座に子供の動きを計算して事故を回避する処置を取る。ハンドルを右側に切って眼前の樹木に車を衝突すれば子供をひかずに済む。ロボットカーは「事故の損傷を最小限に抑える」ようにプログラミングされているから、「3人の子供の命を守る」という選択を取る。

ロボットカーのシートで快適に新聞を読んでいた車の所有者は樹木に衝突して大けがをするかもしれない。ひょっとしたら死去するかもしれないが、子供の命は守ることができる。事故に関わった人間の数は3(子供)対1(車内の人間)だ。「事故の際、犠牲を最小限に抑える」とプログラミングされているロボットカーには他の選択肢はない。

人間がハンドルを握っている時、運転手が飛び出した子供を救うために歩道に乗り上げ、その結果歩道にいた7人の歩行者を殺す、といった状況が考えられる。ロボットカーの場合、プログラミングに基づき瞬時に決定するから、クールであり、慌ててパニック状態に陥ることはない。

別の状況を考える。前方に子供が歩道から飛び出した。歩道には老婦人が歩いている。子供を守るためには歩道に車を乗りあげる以外に他の選択がない。ロボットカーは躊躇することなくハンドルを歩道側に切り、老婦人は犠牲となる。人間の平均寿命のビッグ・データに基づき、ロボットカ―は子供の命が老婦人のそれより長生きすると判断する。

それでは、子供の命が大人のそれより価値あるとすれば、子供1人に対し何人の大人の命ならば等しいのか。もちろん、ロボットカーのプログラミングの仕事は人間だ。だから、車内の人間を事故から守ることを最優先するプログラミングも可能だが、倫理的観点からそれは許されるか。逆に、車内の人間を犠牲にしても事故を避けるようにプログラミングされたロボットカーを誰が買うだろうか。コンピューターもミスを犯さないとは言えない。眼前に兎が飛び出したが、ロボットカーがそれを子供と判断し、事故を回避するために樹やコンクリート壁に衝突するかもしれない、等々、新しい問題が生まれてくる。

交通事故の場合、想定外の事が瞬時に発生する。ロボットカーは自身で判断しなければならない状況に対峙するかもしれない。換言すれば、ロボットカーは人間の運命を決定しなければならない。もちろん、その前に、われわれはロボットカ―の倫理問題を解決しなければならないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年1月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。