▲「哲人政治」を唱えたプラトン(wikipediaより、ラファエロの肖像)
「民主主義」が抱える根本的な問題点
古代ギリシャには現在の民主主義の原型の一つとも言える「直接投票制」があったが、小さい社会で具体的な事柄を対象に行われたので、「衆愚政治」の弊害がすぐに露呈した。市民達は何よりも「自分個人の利益」だけを考えたし、「やりたい事」だけを考えて、「実際にそれをやる人」を吟味しなかったので、長期戦略の一かけらも持ち合わせない「無責任な大衆扇動家」が実際の政治を支配するに至り、国家戦略を大きく誤る結果を招いた。
そこで哲学者のプラトン等は、早々と民主主義に見切りをつけて、「賢い人逢が社会全体の長期的な利益を考えて政治を取り仕切る」という「哲人政治」を提唱した。
実は「衆愚政治」は何も「直接民主主義」にのみ当てはまる事ではなく、現在の世界のほとんどの国が採用している「間接民主主義」にも当てはまる。政治家は票を集める為に「出来ない事」を平気で言い、「病気を治す為に飲まねばならぬ苦い薬」については口を噤む。(だから、病気はいつまでも治らず、いつの日か大きな破綻を招く。)
世界の多くの近代国家では、「民主主義」は元々「君主制」に抵抗する概念として出てきたので、当然「独裁制」に反対する。しかし、皮肉なことに、民主主義体制下では、民衆が「英雄的な独裁者」を熱望し、結果として「独裁制」が生まれ、「後で後悔したが既に手遅れだった」という様なケースがしばしば起こっている。
歴史を直視すれば、多くの事が見えて来る
日本を無謀な戦争に導いたのは、一握りの軍部の指導者でもなければ、ましていわんや天皇でもない。大衆が誰よりも好戦的だったのだ。(昭和天皇ご自身は、当時の一般国民よりはるかに平和願望が強かったし、軍部の指導者ですらかなり現実的だった。)そして、自社の売り上げを伸ばす為に、この大衆を無責任に煽ったのがマスコミだった。
日本は戦争に負け、占領下の日本政治を取り仕切った米軍総司令部の民政局の若手官僚達が一気呵成に書き上げた「日本国憲法」が、日本国民に「主権在民(民主主義による立法と行政の枠組み)」「法の下の平等(基本的人権の保証)」「自由主義(特に言論の自由)」等の恩恵をもたらした。
以来、日本では、経済運営が「資本主義(市場原理主義)的なやり方」と「社会主義(国家経済主義)的なやり方」の狭間で揺れる事はあっても、また、安全保障のあり方についての意見が人によって大きく変わる事はあっても、「自由」「平等」「民主」の旗印が揺らぐ事は一度もなかった。
さて、目を世界に転ずると、近年の大きな出来事は、マルクスやレーニンが提唱した「共産主義」の壮大な実験が失敗に終わった事だろう。しかし、その一方で、多くの発展途上国が、「民主主義」の下で「非能率」と「汚職・腐敗」に翻弄され、「自由主義」の旗印の下で「騒乱」や「内戦」のもたらす惨禍を舐めている事も忘れてはならない。
「アラブの春」は、強大な権力を握ってきた独裁者が「ネットを通じて集まってきた民衆の手によって打倒された」事件として、当初は大いにもてはやされたが、結果としては、一般大衆の生活は独裁時代より却って悪くなってしまった。
今こそチャーチルの名言を覆す時
「民主主義とは、国民が政治に参加する最悪の方法である。だが、それ以外に、国民が政治に参加する方法を、人類はまだ発見していない」これは故ウィンストン・チャーチルが残した有名な言葉だが、そろそろ人類は、「民主主義を運営する方法」に少しだけ工夫を加えて、これを「最悪」から「まあまあ」程度に変える事を、真剣に考えるべきかもしれない。
そして、私は、その鍵は、もしかしたら「コンピューター技術の進歩」にあるかもしれないと思っている。
SFの世界では、例えば「マザー」と名付けられたスーパー・コンピューターが、プラトンが考えていたような「公正無比の哲人」を代替して、「膨大な数のデータを収集・分析」し、その上に立って「正確無比な推論」を駆使し、「最大多数の最大幸福を実現する政策」を打ち出す。「国民はこのコンピューターに全幅の信頼を置き、安心して毎日の生活を送る」という様な未来社会がしばしば描かれている。
私は、現時点では、そんな「若干不気味な世界」の到来を夢想しているわけではない。しかし、私は、コンピューターが「政治のプロセスを透明化」して、政権の座にある為政者が「計数的に正当化された推論に基づく政策」を推進するのを助ける事を、密かに期待している。少なくとも、「重要なデータの見落としがあればこれを指摘し」、「推論のやり方が歪んでいればこれを正す」事ぐらいは、出来るのではないかと思っている。
現時点で、コンピューター技術は既に相当なレベルにまで進化した。しかも、「人工頭脳(AI)技術」「クラウド技術(ビッグデータの活用)」「その双方に関連する自己学習能力」等の導入によって、その進化は更に加速されつつある。その一方で、教育の停滞もあるのかもしれないが、一般国民の「論理的な思考能力」や「自らの価値観を創成するプロセス」は、極めて低いレベルに留まっているように思える。
刮目すべきコンピューターの能力
コンピューターの得意分野は、簡単なものから順に並べると、
1)あらかじめプログラムされた通りの事を行う。
2)計器(センサー)が示すものを読み取って、これに対応する事を瞬時に行う。
3)経験則とそれに関連する論理回路によって、自らが選択した行動がもたらす結果を予測し、それらを比較検討した上で、最適解を提案する。
4)予測を行う為に必要なデータの検索範囲を拡げ、「人間の感情」をもその対象にする等の事によって、適応範囲を更に飛躍的に拡大する。
となろう。
現在は、コンピューターの進化は、既に3)の分野に踏み込みつつあり、囲碁や将棋では名人と呼ばれる人達を打ち負かしつつある。4)の段階に到達するには、なお多くの年月を要するだろうが、「完全な自動化を目指すのではなく、人間の最終判断を助けるだけで良い」と割り切れば、現在の段階でもある程度の事はできるだろう。
人間の能力を超えてコンピューターが役に立つのは、「膨大なデータの瞬時の解析」「それをベースとした長期的な予測」「多岐にわたる選択肢のそれぞれに対する得失の分析」等々であるが、ここに「隠し事をしない(採用するデータと推論のプロセスに透明性をキープする)」「私情に影響されない(採用するデータと推論のプロセスに恣意をいれない)」「汚職・腐敗に無縁」等のメリットも加わる。
逆に言うと、人間の弱点は「上記の裏返し」である。「哲人」のレベルでさえ相当の問題を抱えるが、「一般大衆」のレベルになると、目を覆いたいような惨状を呈する。残念ながら、「一般大衆」の多くは、「扇動に弱く」、「偏ったインプットに簡単に飛びつき」、「一旦思い込むと、元に戻って考え直す事が出来ず」、結果として「論理的な思考も公平な判断もまるっきり出来ない」事が多い。
しかし、民主主義体制下では、こういう人達が全て均等に一票を持っており、「あの手この手で彼等に迎合してくる」政治家を選挙で選び、こうして選ばれた政治家達が国の政治を取り仕切る。こうなれば、「経済政策」も「安全保障政策」も、「当面の気休め」に焦点が絞られ、「長期的な問題(最悪事態)に備える」事など、とても出来るわけはない。
私の提案
1)スーパー・コンピューターをフルに活用する国立の「政治経済研究所」を創設し、ここで、政治、経済、安全保障、外交、産業政策、エネルギー政策、社会政策、労働政策、教育制度、医療保健制度、等々の各分野における必要データの収集と分析を行い、これによって、国民が多様な「政策の選択肢」を持てるようにすると共に、それらの選択肢の一つ一つについての得失の分析を行った上で、一次的には政府の、最終的には国民の判断を仰ぐ。
2)この研究所は、あらゆる層の国民に対して完全に開かれたものとする。一般国民は、そこで利用されるデータとロジックについては常に意見を開陳する権利を持ち、研究所がそれを無視する事は許されない。全てのシミュレーションの結果は、そのプロセスと共に、詳細にわたって公表される。
3)立法府や行政府が何等かの重要な政策提案を行う時には、必ずこの研究所の意見を忖度しなければならず、立法府や行政府がこの研究所の意見に大きく反する政策を推し進めようとする時には、その一つ一つを国民投票にかける事を義務付ける。
しかし、こんな事を言っても、多くの人達は眉に唾をつけて、容易にはその効果を信じないだろう。従って、まずは過去の事例について、模擬的なシミュレーションを行い、「その当時にこのような研究所があれば、如何なる貢献が出来ただろうか」について、あらかじめ多くの人々に理解して貰う事が必要だ。
具体的には、時代を遡り、1905年(日露戦争が終わった年)から1941年(日米開戦の年)に至るまでの約36年間に日本政府が行った数々の決定について、別の選択肢がなかったかを考え、異なった決定が何をもたらし得たかを検証してみるのが良いだろう。
コンピューターのシミュレーションは、恐らく、「日本の露骨な拡張政策に対して蒋介石政権は容易には妥協せず、日中間の紛争は泥沼化する」事を予測しただろうし、「それが行き着くところは、米国の石油禁輸であろう」とも予測していただろう。石油を止められれば、海軍が戦闘力を失うので、独伊との提携だけではどうにもならないのは明白故、コンピューターは「日中紛争の不拡大」を強く勧めていただろう。
松本 徹三