憲法を憲法たらしめている力とは? --- 岩田 温

「存在」の起源を問う「哲学」


「存在者」ではなく、「存在」それ自身を問うことの重要性を説いたのが、ハイデガーだった。
ハイデガーは云う。

「哲学するとは『なぜ一体、存在者があるのか、そしてむしろ無があるのではないのか?」と問うことである」(ハイデガー『形而上学入門』22頁)

ここでハイデガーがいう「存在者」とは、人間を指すだけではない。動物や昆虫と言った生物だけを指すのでもない。人間、動物、車、様々な形で「存在」する全てである。我々は個々の「存在者」について考える。すなわち、「人間とは何か」、「犬とは何か」、「車とは何か」。しかし、そのとき、我々は「存在」そのものを自明視している。ハイデガーは、個々の「存在者」を問うのではなく、「存在」そのものを問うことが「哲学」だと定義する。

だから、ハイデガーにとって、存在の意味づけを簡単に与えてくれる宗教に基いた「宗教哲学」などというものは存在しない。「存在」の根源を問うのが「哲学」なのだから、「存在」の意義を予め定めてしまう立場に立てば、「哲学」をすることは出来ないということになる。

例えば、キリスト教では「原始に神天地を創造りたまえり云々」との聖書の字句こそが、全ての「存在者」の「存在」の根拠とされている。それゆえに、キリスト教を熱心に信仰する人にとって、「存在」とは自明の事実である。神が全ての存在者を想像した。いわば、神が全ての存在者の根拠であることを自明の事実と信仰する人々こそが、熱心なキリスト者なのである。「存在」は神によって定められている。従って、改めて「存在」について問い直すことは、神に対する冒涜とすら捉えられる可能性が否定できない。

だから、ハイデガーは云うのだ。

「われわれの問いの中で真に問われていることは、信仰にとっては愚かなことである。
 この愚かなことの中にこそ哲学は成立する。『キリスト教的哲学』などというものは木製の鉄のようなものであり、誤解である」(前掲書、22頁)

ハイデガーは「愚かなこと」というが、彼が実際に哲学を「愚かなこと」だと考えているとは思えない。彼は「存在」を問うことなく全ての「存在者」の根拠を「神」に負うキリスト教を揶揄しているのだ。

このハイデガーの「存在」についての問いかけは「憲法」を考える際の導きの糸となる。

憲法の起源とは?


多くの憲法学者たちは、憲法の存在を自明視した上で議論を展開する。所与の憲法を解釈することが憲法学者の任務と心得ているのであろう。あたかもキリスト教者たちが、「存在」そのものの根源を問わなかったように、「憲法」の存在そのものの根源を問わずに議論を進めているように思われてならない。とりわけ、戦後の日本では、日本国憲法が絶対視され、日本国憲法を如何に解釈するのかにのみ議論が終始しがちであった。

日本国憲法を自明視する人々は、この憲法が如何に憲法となったのか、この憲法の存在そのものの根源には何があったのかを見ようとしなかった。

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編集部より:この記事は政治学者・岩田温氏のブログ「岩田温の備忘録」2016年2月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は岩田温の備忘録をご覧ください。