いつまで続く偏差値至上主義

受験シーズンも中高が終わり、大学入試にシフトしてきました。この時期、いつも思うのは偏差値。私も偏差値世代でありますが、これは一見便利な指数ではありますが、弊害があることは多くの人が知っていると思います。それでも改善できない教育界には「なぜ?」という言葉しか出てきません。

私が高校受験したころもクレージーでした。中学校1年生から年に数回、模試があり、校内成績が順位として個人のテスト結果に出てきます。当然、自分は「あいつより上でこいつより下」というのが会話等で分かってしまうため、優勝劣敗の意思を強く押し出します。これは成績上位者の場合、ライバル心が高まるため結構なことなのですが、中位から下の生徒にとっては苦痛以外の何物でもなかったと思います。

更に追い打ちをかけるのが進学塾です。私の時は確か夕方5時ぐらいから8時か9時まで塾に缶詰でしたが、その塾もテスト、テストの大攻勢で成績ごとにクラス分けをし、入れ替え戦も日常茶飯事。私は比較的上位のクラスにいたのですが、中3の二学期ぐらいから上位者のみが集まる渋谷のクラスに集中させられ、更に激しいライバル心を煽るところに放り込まれました。

クラスは40名ぐらいだったと思います。例えば英語は一枚のシートに質問が20-30個あるのですが、それを全て回答するのに与えらえる時間は1分とか2分でした。その上、9割以上は正解していないとダメ。これを一日に20枚ぐらい「処理」させられるのですが、この効果とは「この構文にはこれ」という完全丸暗記であり、頭を使っておらず、鉛筆だけが動いているという条件反射の教育でありました。数学でも社会でも「処理時間」は若干長いですがほとんど同じです。

二学期終了時点(=冬休み)から受験日前日までは学校に行かず、塾に朝9時から夜まで缶詰、正月も鉢巻き、塾の講師が「君たちの正月は春までこなーい!」との威勢に完全に押されていました。結果としてその気違い沙汰のクラスメートの大半は偏差値70以上の国公私立に進みました。

今考えてみればあのスパルタは自分の限界への挑戦だった気がします。東京マラソンで限界に挑戦した方も多かったともいますが、受験勉強という長丁場のマラソンで完走した気持ちであります。但し、暗記学習ほど忘れやすいものはなく、今考えれ見れば「記憶の保証期間」はないのか、と言いたくなります。

では中位ぐらいの方ですが、今、私立高校の経営は厳しさを増し、生徒集めに必死であります。そんな私立高校では巷に公表されている偏差値とは別枠でかなり合格者を出しているところもあると聞きます。

偏差値は計算上、40-60の間に68%の人が収まるようになっています。その偏差値を測定する試験ですが、コンディションや設問によってばらつきが出やすいながら、中位の場合、一問の成否の差異で順位が大きく変動します。(マラソンで最後の100メートルをダッシュすれば10人ぐらい抜けるのと同じです。)ある意味、試験の運次第ということであって個人的には中位の人は偏差値による位置づけはあまり意味をなさないと考えています。

一部の学校側もその辺りを認知しているのでしょう。学校の全体水準から大きく落ちこぼれない限りにおいてドンドン採用しているようです。また、高校の校長は塾廻りをして「良い生徒を当校に是非」と営業しています。今や中学校廻りだけではないのです。

では正解を一つ選ぶ方式ではなく記述式にすれば採点に時間とムラがでるという点が指摘されています。明らかな不正解はともかくとして、記述式のポイントは考え方のアプローチにあるわけですから正解は一つではなく、採点者の裁量を広げてもよい気がします。逆に記述式の設問がある一つの答えを誘導するものではなく、多数あるであろう考え方を引き出すものにすればどうでしょうか?

多くの若者はマニュアルがないと自分で判断が全然できなくなってきています。これはマニュアルを覚える能力はあるけれどそれ以外の事態が生じた時、自分で考える能力が欠落していると言えるでしょう。まさに私も経験した進学塾で考えない学習をし続けた結果だろうと思いますが、このあたりは今後10年ぐらいで良くなるのでしょうか?(数十年待って変わらない日本ですから期待はしていませんが。)

では今日はこのぐらいで。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 3月2日付より