逝く者は斯くの如きか

北尾 吉孝

『論語』の「子罕(しかん)第九の十七」に、「逝(ゆ)く者は斯(か)くの如きか。昼夜を舎(お)かず…ああ、過ぎていくものはこういうものか、昼夜をおかず休まずに流れていくな」とあります。

此の言は孔子がある時、川のほとりに佇んで水の流れを見ながら発したものです。之に関しては「孔子も、老齢になって時の流れが早く感じたから、時間は川の水の流れのように休むことなく去るものだと歎息されたのでは」との解釈が一般的です。孔子が否応なしに老いて行く自分を見つめたということも一面あると思います。

しかし、私見を申し上げれば此の言葉は、「孔子も、老齢になって時の流れが早く感じたから」といった如きニュアンスだけではないように感じます。何故なら孔子にとっては、そうした類は言わずもがなだと思うからです。

それからまた、孔子は時が過ぎ去って行くスピードも非常に早いという認識を常々持っていたと思います。孔子は常に時間を非常に惜しんだ生活をしてきたのではないかと思います。

一日24時間一年365日、誰にも皆平等に与えられている此の時間がどれほど貴重なものであるかを、孔子は深く理解していたというわけです。そして更には時間を惜しむ即ち惜陰という事と併せて、孔子は天命を果たし世のため人のために出来るだけ長く貢献したいとの思いから、自分の身体を大切にして健康で長生きしようと努めてもきました。

『論語』の「郷党第十の八」の食に関する短い句をに見ても、「魚(うお)の餒(あさ)れて肉の敗れたるは食らわず…臭いのする魚や腐った肉は食べない」や「色(いろ)の悪しきは食らわず。臭(におい)の悪しきは食らわず…色が悪く、悪臭のするものも食べない」等々と、孔子が食というものに如何に慎重であったかを窺い知ることが出来ましょう。

中国においては「医食同源」で、伝統的に医(健康維持管理)と食(食べ物)を密接に関連付けてきました。上記章句には、当たり前の事柄が様々に書かれています。それだけの神経を使っていたからか、孔子は73歳まで生きることが出来ました。当時として之は信じられない位の長生きです。

孔子は人間の生命の有限性と時間というものの怖さ延いては惜陰の大切さを分かり切っていたと思います。シェークスピアのソネットのテーマにも、「時間はすべてを食いつくす」というフレーズがあります。之は古今東西の先哲の共通認識とも言えましょう。『論語』のように書かれた物、そして古典として残った物は永遠の生命を持ち続けるのです。

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