この事件、物理的証拠がなく、自白だけをもとに審理され判決が下されることが最大の特徴。被告は無罪を訴え、検察側は22日「執拗で残虐、冷酷非道な行い」として無期懲役を求刑した。また被告の態度を。「うそにうそを重ね、悔い改める姿はない」と批判したそうだ。判決は31日に宇都宮地裁(松原里美裁判長)で下される。
物理的証拠がないのだから、自白の信憑性、任意性、言い換えればそれが真実か否かだけが論点になる。検察側はそれゆえ取り調べを録画した70-80時間の映像の内、7時間分を裁判員と裁判長に開示し、被告の自白の任意性の立証を試み、18日に松原里美裁判長は自白調書を証拠採用した。証拠とされたということは、裁判における真実とみなされたわけだ。
ここで、裁判の経過を振り返る=画像は、日経新聞の3月18日付記事より=。事件は2005年に起きた。被告の取り調べ時期並びに期間は、8年後の2014年2月18日から4月9日までの約2か月間と、5月29日から「自白調書」に署名する6月下旬までの合計約3か月間。この間の警察官と被告とのやり取りが弁護士か公判を通して明らかになっている。
ここまで見ると、この事件の異様な点に気付く。実は本件だけでなく、冤罪事件に共通の事象だ。3月初めに冤罪事件がいくつか明らかになり、16日の日経新聞によれば、「戦後発生し、死刑か無期懲役の判決が確定しながら、その後に再審が開かれた事件は8件。すべて再審で無罪が確定している。(中略)。xxxx事件では、検察側は「捜査段階の自白は任意性、信用性とも極めて高い」として改めて無期懲役を求刑。
しかし判決は、有罪立証の柱とされた自白調書、目撃証言の証拠能力を疑問視し、無罪を言い渡した。」とある。なお、本記事は裁判のプロセスを見てのコメントであって、被告の無罪有罪を論じるものではない。ポイントを箇条書きにまとめる。
1)物理的証拠がないのに訴追されたこと:無実であっても、何らかの理由で「自白調書」に署名させられれば犯人になる。証拠が警察、検察によって捏造されたり、無罪の証拠を隠滅されることもあるが、冤罪事件では全て「自白調書」に署名させられている。
2)長期間の取り調べ:一見穏やかな言葉なのでカモフラージュされているが、脳と精神を破壊する残虐な行為というのが実態。肉体的拷問と異なり、痕跡を残さないだけにより陰湿な方法といえる。人間の脳と言うのは傷つきやすい。一言言われただけで傷つく人がいるくらい。毎日長時間、殺害現場の状況や捏造ストーリーを聞かされ、真実を言っても否定罵倒され、それが、1週間、2週間、2か月と繰り返される。オウム真理教などの洗脳教育、いじめなど精神的虐待の長期継続と思えば想像しやすい。自殺しないのはできないから。公判で自白調書を否定するのは、公判時には時間の経過によって脳機能が回復し、正常な精神状態に戻ったからにすぎない。環境を考慮にいれれば、どちらの証言に合理的疑いがあるか、精神医など持ち出さなくてもまともな人なら判断できるだろう。
2チャンネルにこんな書き込みがあった。信ぴょう性を疑う人もいるだろうが、中身に迫真性はある。
「取調べマジできついからな。 (中略)。 んで結局俺が呼び出されて警察は俺だと決め付けて、いくら先輩がやったって言っても聞いてくれない。 バイトで疲れてヘトヘトなのに座らされて他人のせいにする奴は最低だとか一晩以上説教をされてマジしんどかった。途中で『はい俺がやりました』って帰ったほうが楽かもって思ったよ 」。
それが2か月続く。やってもいないのに自白調書に署名するわけないだろう、と思う人は想像力に乏しすぎる。すべての冤罪事件の被告は「自白調書」に署名している。
3)取り調べ録画の公開:そこで検察側は、被告の自白の任意性の立証を目的として取り調べ録画が公開した。多くの国民の目には検察側の公正公平な態度と映るだろう。公開されたのは、録画された映像の1/10ほど。内容を見ていないので断言できないが、公開の目的から、検察側に都合の良い編集となっていることは想像に難くない。しかし、問題の本質はそこではない。
取り調べ期間からみて、録画された時間の数倍から10倍程度の取り調べが行われたと考えてよい。内容は上述(2)のとおり。「自白調書」の任意性は、期間を含む取り調べプロセス全容に依存する。裁判長や裁判員は、プロセス全容を追体験することなしには、被告の「自白」が任意なのか脳と精神を破壊することによる誘導なのか、判断できないはずだ。現実的に全プロセスを追体験することはできないから、検察提出映像だけで判断したのなら、人の人生もしくは運命を決定するにしては安易すぎる。
4)警察官の証言:上図に被告と警察官のやり取りが4件記されている。この部分の録画が公開されていれば、警官は偽証罪であり、「自白調書」の任意性も瓦解する。だから、この部分は録画にはない。一方審理においては、栃木県警警察官が証言し、全て否定した。これまでの明らかになった全ての冤罪事件において、今回のような警官の行為があったことは明らかになっており、本件においてはこれらの行為がなかった、という証言には合理的疑いがなければならない。「自白調書」の任意性は、よってこの証言が真実か、警察官が嘘を述べているかによって決定されねばならない。裁判長が「自白調書」を証拠採用したということは、4件の否定証言に対し、被告に対する疑惑と同じレベルの審議はされなかったことでもある。これでは、裁判の公平性を自ら穢すようにみえるのだがどうだろう。
冤罪は、警察、検察の証拠やストーリーの捏造、取り調べと言う名の精神破壊、地裁と高裁の裁判長の無能、の三位一体で作り上げられる。証拠があるから逮捕されるわけではなく、過去の冤罪の多くは証拠がないから逮捕された。これの背景には、警察官、検察官、裁判官が、故意、過失、無能によって無実の人の運命をいたずらに傷つけても犯罪には問われない、という法の仕組みがある。刑事訴訟法第319条第1項に「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く拘留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものではない疑のある自白は、これを証拠とすることはできない」とあるのだが・・・。31日、どんな判決が下るのだろう。
加藤 完司 無職(元エンジニア)