神武東征と建国記念日の科学的解釈

八幡 和郎

任那を教科書に載せるなと韓国国会は決議したが」「冊封体制でアジア史を説明するのは日本の学者だけ」「卑弥呼は反天皇制のヒロインだ 」と古代史を三回ほど連載したので、しばらく、週末ごとに歴史の話を書かせてもらうことにしました。題して「歴史に謎はない」というシリーズにしておきます。

だいたい、歴史学者や小説家、さらには正史を貶めたい連中がなんでも謎とか幻にするからおかしくなるので、本当は謎などあまりないのです。また、私のポジションは皇国史観でも自虐史観でもありません。客観的に歴史を見て、どこの国民でももっているような自国の歴史に対する拠り所を求めていこうというものです。

さて、2月11日は「建国記念の日」と定められています。戦前風の皇国史観では、神武天皇が日向から大軍を率いて「神武東征」が行い、紀元前660年のこの日に奈良県の橿原市を都として定めて日本国を建設したということになっています。

しかし、残念ながら2600年以上も前というのは少し農耕は始まっていたかもしれませんが、まだ縄文時代であって、クニが生まれたような時期ではありません。その意味では年代は補正される必要があります。

しかし、根も葉もない創作であるかというとそれもおかしいのです。卑弥呼と関連して先週も書きましたが、橿原市や御所市のあたりにあった小王国から出発して大和を統一し、さらには吉備や出雲まで勢力圏にいれたのは、三世紀の卑弥呼の次の世代あたりに活躍した崇神天皇です。

その崇神天皇を生んだ天皇家は、当然に先祖についての記憶をもっていたわけです。それが、自分の祖先は日向からやってきて、大和の片隅に小王国を建てたということだったというのが、「日本書紀」や「古事記」に書いてあることなのです。

そこには、日向で栄えた国の王者だったとか、日向から大軍を率いて東征に出発したとか書いているわけでありません。一緒に出発したのは数人しか名前もなく、とくに、妃も含めて女性を連れておらず、大軍を率いて東征に出発したというような話は、南北朝時代の「神皇正統記」あたりからはじめて見受けられる中世伝説のようです。

宮崎市にある宮崎神宮は江戸時代までは皇室とは縁がなく、高千穂神楽も仏教の踊りだったらしいのです。また、大和朝廷と日向のつながりは西暦300年前後の景行天皇やヤマトタケルから始まるのですが、先祖の墓に参ったとか祀ったという話は出てきません。

これを合理的に解釈すれば、崇神天皇が自分の先祖で初めて大和にやってきて小国家を創ったのは日向出身の人物だという漠然とした言い伝えを継承していたと言うことではないでしょうか。

神武天皇ののち、二代目の綏靖天皇(母親は大和の女性)から九代目の開化天皇までを欠史八代というように事績があいまいであることから神武天皇も架空だという人が居ますが、地方の旧家でもその土地に移ってきた初代の言い伝えだけ具体的でそのあとの世代は曖昧というのはよくあることで不自然ではありません。

そういう意味で、日本国家といえるものの創始者は崇神天皇であり、そのもとになった小国家の創始者が神武天皇であるということでいいのです。そして、ローマ帝国の始祖であるロムルスの伝承とか、ロシアのはじまりがノルマン人のリューリクという人が創ったノブドゴロ公国という小国家だとかいうのと同じ性格の話で、その意味で神武天皇の大和での小国建国を日本建国というのはおかしくはありません。

ただし、その神武天皇が本当に日本列島を子孫が統一してくれるとというような意識を持っていたのかどうかは不明としか言いようがないのです。

そうした意味も含めて、いろいろ議論の出てくる「建国記念の日」よりも、「皇室の日」というように位置づけるのも一考かもしれません。現在、在外公館がパーティーなどを催すナショナル・デーは、天皇誕生日です。これは、代替わりごとに変わるので不便ですが、これに変えて皇室の日をナショナル・デーにするのも良いと思います。イギリスでは、六月の女王誕生日がナショナル・デーですが、これは現実のエリザベス女王の誕生日とは関係なく固定されているのです。

shouzou
八幡和郎  評論家・歴史作家。徳島文理大学大学院教授。
滋賀県大津市出身。東京大学法学部を経て1975年通商産業省入省。入省後官費留学生としてフランス国立行政学院(ENA)留学。通産省大臣官房法令審査委員、通商政策局北西アジア課長、官房情報管理課長などを歴任し、1997年退官。2004年より徳島文理大学大学院教授。著書に『歴代総理の通信簿』(PHP文庫)『地方維新vs.土着権力 〈47都道府県〉政治地図』(文春新書)『吉田松陰名言集 思えば得るあり学べば為すあり』(宝島SUGOI文庫)など多数。