中国反体制派メディア「大紀元」に興味深い記事が掲載されていた。タイトルは「人間に『自由意思』があるか」だ。3人の人物の立場を紹介している。
▲サイコロ(ウィキぺディアから)
先ず、オックスフォードの数学者マーカス・デュ・ソートイ教授は、人間に「自由意思」はないと考える。自分が何をしようかと意識するより前に、すでに脳が本人の意思情報をキャッチし、人間を活動させているというのだ。
次は、物理学者のミチオ・カク氏は。「電子を見ると、それはいつも動いている。電子の位置に関して言えば、不確実性があるように、人間も同様に不確実性がある」と主張し、「神はサイコロを振らない」といった決定論を主張したアインシュタインに反論している。
最後は、米哲学者であり、認知科学者のダニエル・クレメント・デネット氏(Daniel Clement Dennett)は、「決定論は常に『必然』という言葉と密接に繋がっているが、全てが『必然』とは言えない」という立場だ。上記の2者の中間的立場だ。
読者の皆さまはどのように考えられるだろうか。
世界最大のベストセラー、聖書をみると、神が全てを決定していると解釈できる聖句と、人間の自由意思次第で結果が異なるという聖句もある。だから、敬虔なキリスト信者は相反する聖句のどちらが神の意志かで悩んでしまうわけだ。
例えば、「ローマ人への手紙」8章29節では「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子の形に似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。・・」と記されている。さらに「私は自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとするものをいつくしむ」とまで主張している。一方、「求めよ。そうすれば、与えられるであろう」(「マタイによる福音書」7章7節)と信者たちのやる気を鼓舞している箇所もあるといった具合だ。
聖書の文字に捉われていたら、神が分からなくなるといった矛盾した状況が生まれてくる。キリスト教会が今日、300以上のグループに分裂した大きな原因は聖書にあるといわざるを得ないわけだ。
当方はジャン・カルヴァンの「完全予定説」を支持しない。同時に、神はサイコロを転がして被造世界の動向を一人楽しまれているとは考えない。神の権限と人間の尊厳さを矛盾せず論理的に理解できると確信しているからだ。
神はアダムとエバを創造した後、エデンの園の「善悪知るの木の実」を取って食べてはならないと戒めを与える。すなわち、人類始祖のアダムとエバには、取って食べることも、戒めを守ることもできる選択権があったわけだ。
換言すれば、神は人間に自由意思を与えておられる。人間は神のロボットではない。神はアダムとエバを自身の似姿で創造したという。そうであるならば、人間も神のような自由意思と創造性があった、と受け取って間違いないだろう。
創世記を読むと、人間は取って食べ、神の戒めを破ってしまった。失楽園が生まれた。神はその後、人間を創造したことを悔いたというのだ。「完全予定説」では考えられない内容だ。
アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という決定論は神の宇宙創造の偉大さを文学的に表現したものだろう。神の偉大さと比較したならば、人間の自由意思の影響は微力に過ぎないからだ。
しかし、人間の自由意思なくしては、神の創造の世界は完成しない。その意味で、人間の自由意思は本来、大きな役割を担っているといわざるを得ない。神は‘揺れない存在‘だが、左右、上下に揺れる人間の姿を目撃せざるを得ない立場にあるわけだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年4月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。