進歩を止めるもの

安岡正篤先生は御著書『瓠堂語録集』の中で「進歩を止めるもの」と題して、「善を見て而(しか)も怠り、時至って而も疑ひ、非を知って而も処(お)る。この三者は道の止む所なり」と書いておられます。

之は古代中国の有名な兵法書『六韜(りくとう)』の一の「文韜(ぶんとう)」にある言葉で、先生は「この三つがあればどうしても進歩が止まってしまう」というふうに言及されておられます。

進歩という語を国語辞書で見てみれば、「物事がしだいによりよいほうや望ましいほうへ進んでいくこと」とか「歩を進めること。前進」等と書かれています。安岡先生が言われる「進歩」とは、こうした意味と若干ニュアンスが違うように私には思われます。

即ち、冒頭挙げた「進歩を止める」とは結果として良い方向に向かって行かない、ということだと思います。それ故これは進歩が止まるというよりも、事態が良い方向に行かなくなるということだと思います。

第一に、「善を見て而も怠り」であります。之は洋の西で昔から、「善は急げ」や「make hay while the sun shines」等々と言われている通りです。

第二に、「時至って而も疑ひ」であります。「時機というものを見ながら」疑心暗鬼で決断が出来なければ、勝機を逃がし行くことになるは言うまでもありません。

第三に、「非を知って而も処る」であります。悪いと知りながら何もせずにいるのであれば、結果は良い方向に行くはずがないでしょう。

要するに、「善を見て而も怠り」「時至って而も疑ひ」「非を知って而も処る」の「三者」とは「進歩を止めるもの」というよりも、「事を上手く運ばせないもの」あるいは「事をより悪化させるもの」と捉えるべきだと思います。

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