ハンセン病患者「特別法廷」の最高裁謝罪を考える

尾藤 克之

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かつて、ハンセン病患者の裁判が隔離施設による特別法廷で行われたことについて、最高裁は謝罪を表明した。調査報告書で「遅くとも1960年(昭和35年)以降については、合理性を欠く差別的な取り扱いであったことが強く疑われ裁判所法に違反する」と結論づけたものである。

●ハンセン病の問題に関する変遷

ハンセン病には医学的な見地を無視した差別の歴史が存在する。昭和6年に制定された旧らい予防法(改正)では全国国立らい療養所患者協議会(以下、全患者)の隔離を法制化した。その結果、多くの患者が自らの意思とは関係なく家族と離れた療養所での生活を余儀なくされた。まずはそのような差別の歴史を知らなくてはいけない。

1953年(昭和28年)
らい予防改正法案可決。

1956年(昭和31年)
「らい患者の救済と社会復帰のための国際会議」が開催。差別的法律の撤廃、在宅医療推進、早期治療の必要性、社会復帰援助等を明記した「ローマ宣言」が採択。

1981年(昭和56年)
WHOが「多剤併用療法(MDT)」を確立。MDTの構成成分であるリファンピシンは、1回の投与でらい菌の99.9%を死滅させる。これによりハンセン病は完全に治癒する病気と位置づけられる。

1996年(平成8年)
らい予防法全廃。

1998年(平成10年)
熊本地裁に、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」が提訴され、翌年には東京、岡山でも同内容の訴訟が提訴される。

2001年(平成13年)
熊本地裁で原告が勝訴、国は控訴断念。同年6月に衆参両院で「ハンセン病問題に関する決議」が採択される。その後、国が謝罪。

●問題の根源はどこにあったのか

1953 年に、議員立法による予防法改正の動きが起こり予防法案が国会に提出されたが、議会の解散により廃案。その後、プロミン等の薬効は認めながらも当時の厚相は「勧奨に応じない場合は強制収容が必要」と発言、厚生委員会では当時の衛生局長も「伝染させる恐れがある場合は隔離することが必要である」と述べている。

しかし、1956年のローマ宣言の採択以降、日本の隔離政策は世界的に批判の対象となった。全患連の要請に応えて議員立法で改正する動きがあったものの、厚生省(現厚労省)が改正案を国会に提案し原案通りに成立する。

永い時間を経て、2001年(平成13年)の熊本地裁で画期的な判決が出される。判決内容は「昭和35年以降の隔離は違憲」とするものだった。その後、15年が経過して、4月25日の最高裁の謝罪へとつながるのである。

最高裁は「裁判官の独立性に配慮したのではないか」という意見もある。裁判官の独立性とは公正な裁判を実施するために外部の圧力や介入を排除する考え方である。これは正当な裁判がおこなわれているからこそ尊重する考えであり、今回のケースには馴染まない。

また1960年(昭和35年)以前の検証も不充分である。1956年(昭和31年)のローマ宣言の採択が、世界的にみたハンセン病の終焉であると考えるのが妥当だからである。これは医学的見地をもとにした内容であり、世界は開放治療へと転換していった。しかし日本は強制力のない決議を無視し「らい予防法」の撤廃をせずに隔離政策をとり続けた。当時の医療関係者などは病気の恐ろしさを説いてまわり撲滅の必要性を訴えつづけた。その結果、偏見をいっそう助長することになり差別が収束することはなかった。

●本日のまとめ

1887年、フランス人神父のテストヴィドが日本初のハンセン病施設「神山復生病院」を設立した。1894年、アメリカ人宣教師である長老教会のゲーテ・ヤングマンは米国から支援を受けて「目黒慰廃園」を設立した。日本人では、1906 年、哲学館の綱脇龍妙によって「身延深敬園」が設立されている。日本においてハンセン病患者の救済活動をはじめたのは主に宗教家(神父、宣教師、僧侶など)だった。

ハンセン病の問題は差別により人生が狂わされた根の深いところにある。このような悲劇を繰り返さないためにも、多くの人がこの問題を認識する必要性があると感じている。

尾藤克之
コラムニスト/経営コンサルタント。議員秘書、コンサルティング会社、IT系上場企業等の役員を経て現職。著書に『ドロのかぶり方』(マイナビ)『キーパーソンを味方につける技術』(ダイヤモンド社)など多数。
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